■てのひら■




「ほれ、希望」

はじめて会った頃から吾郎はわたしに、幾度となく手を差し出してきた。
吾郎の手は大きい。ごつごつと骨ばっていて厚くて広い。そのくせ指は長くてとても綺麗に伸びている。
きっと、触るとあたたかい。
無遠慮に頭をがしがしと撫でられた時に感じるそれはとてもあたたかなものだから、きっとそうなのだろうと思う。

わたしはそれをよく知っている。
知ってはいたけれど、差し出されたそれを掴むことはためらわれた。
だって、その「手をつなぐ」という行為は、子供のすることだからだ。ちいさな子供が、迷子にならないように大人に手をひいてもらうこと。
そんな行為だと、そう思っていた。



だからわたしは、差し出された手を掴むことはなかった。
幼稚園に迎えに来るのが吾郎になったときも、だから手は繋がなかった。
ほれと言って差し出されるてのひらをぷいと無視して先を歩く。
とはいえ5歳のこどもの足の速さなどたかがしれたもので、すぐに追いつかれて遥かにうえから苦笑される。

「ホンマ可愛くないやっちゃな〜」


それを聞いてなんとなく胸が痛くなるけれど、それでもわたしは手を繋がなかった。
だって、わたしは子供じゃない。
子供じゃないのに、そんなことはできない。
けれどそんなことを言うと笑われるのはわかっていたので、わたしはぷんとして先を歩いていた。

それからも吾郎は幾度も手を差し伸べてきたけれど、小学校4年を過ぎたころにはそれもぴたりと途絶えた。
そうなると勝手なもので、わたしはそれをほんの少し寂しく思っていた。
そのころにはわたしは吾郎の家に住んでいた。縁もゆかりもないくせに、身寄りのなくなったわたしを引き取ってくれたのだ。
それだけでとてもありがたいこと。だから、それなのに寂しく思うだなんてばちあたりなこと。
わかっているのに寂しかった。
けれど、吾郎のほうから手を差し伸べてくれない以上、わたしからその手を繋ぐことなどできるわけがない。
だからそのときになってようやく、素直に幼稚園のころに繋いでおけばよかったと思った。

けれどわたしは子供じゃない。
子供じゃないのだ。
小さな頃に聞いた吾郎の戯言を、わたしはまだ真にうけていたから、ひたすらにそう思っていた。
子供じゃなくて、大切な友人。
16歳になったらそれ以上のものにしてくれるという戯言。
だからわたしは子供ではない。

それだけはどうしても譲れなくて、わたしはだから隣にある吾郎の手をそうっと見るだけの日が続くことになった。


そうして時がたち、自分が吾郎に抱く感情の正体を明確に理解したときにはいっそうそんなことはできなくなっていた。
もう戯言は戯言でしかないと理解していたし、自分の感情ゆえの我が侭も理解していた。
吾郎のしあわせを奪った自分。
ただ側に居ることすら許されない自分の立場。
それなのにこれからも側に居たいとか、手を繋いで欲しいとか、そんなことけっしていえるはずもなかった。


ときおり頭を撫でられるたびに胸が疼く。
がしがしと乱暴に撫でるそのくせは、幼い頃から変わらない。

広いてのひら。骨ばっていて長い指。そのあたたかな感触。
そうして、そのときの目を細めて笑う顔。

それだけを覚えて、わたしは吾郎のもとを去ろうと思う。


明日はわたしの16歳の誕生日。
遠い昔の、やくそくの日。
だけれどきっと、わたしはこの家を去ることになる。
だから。
だから……。

「……なんだ」
「いや〜。なんか急に撫でたくなった」


きなこさんを抱っこしているわたしの頭を右手で、きなこさんの頭を左手でわしわしと撫でながら吾郎は顔を崩して笑う。

「うん、なんかええなあと思って」
「なんだそれは」


あまりにのんきに笑う声を聞きながら、わたしはその感触を覚える為にそうっと瞳を閉じた。



――この先なにがあってもずっと、この男のことを覚えていられるように。










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2011.5.29