■名前のない子猫■ |
同胞に変わって礼を言おう。 ありがとうよ、二人とも。
名前のない子猫
「おかえり。吾郎。頼みがあるんだ」 春の兆しが見え始めたある日。 いつものように迎えに出てきた子供がいきなりそう切り出してきた。 赤谷吾郎はきょとんと瞬く。 「頼み?」 珍しいなあ、と吾郎は思った。 彼がこの子供をひきとってすでに3年になる。共に暮らして丸3年。 しかしその3年の間に子供が自分に「頼みごと」をするなど片手の指で数えるほどしかなかったのだ。 「猫を飼いたい…」 「へ?猫?この家にはきなこさんがおるやないか」 赤谷家で現在飼っている動物の名前を出すと、子供はゆるくその首を振った。 「…実は学校の帰りに、子猫が捨てられていて…」 言葉と共に子供の上着の中からぴょこんとふたつの耳が飛び出してきた。 白い毛に覆われた小さな耳。 ついでもぞもぞと小さな小さな動物が顔を覗かせた。 どこかとろんとした青い瞳が吾郎を見上げる。 そうして消え入りそうなかぼそい声をひとつあげた。 小学校からの帰り道。 風に紛れそうなほどのそのかすかな声に、藤堂希望は足を止めた。 もう一度耳を澄ますが、その声が聞こえることがなかった。 「……」 気のせいかと思い立ち去ろうと踵を返す。 しかし何故か気になり、ひとつめの角まで行きかけた道をすぐに戻ってきてしまった。 夕暮れの風が子供の体温を奪っていく。 それに身震いしながらも、希望はぐるりと辺りを見渡した。 辺りはなんの変哲もない住宅街だった。人影はなく、空にはカラスの一匹さえいない。 塀の下を覗き込んだり、垣根をすかしてみたりしてみたがその声の主を捜し当てることはできなかった。 「……」 立ち尽くし、そうしてもう一度見渡す。そこでゴミ捨て場に捨てられている、黒いビニール袋の存在に気がついた。 希望はまじまじとそのビニール袋を眺めやる。近づき、屈みこんでその袋を観察したがやはりただのゴミのように見えた。 「……何かいるのか?」 ぽつりと尋ねてみるがその声は虚しく響くばかりだった。黒いビニール袋の口は硬く結ばれていて、中を伺うことも出来なかった。 しかしそうっと触れてみるとそのビニール袋の中のものはやわらかく、そして暖かかった。 子供はびくりとして手をひく。心臓が激しく音を立て、そうして冷たい汗が全身を伝った。最悪の想像が頭の中をよぎる。 「……まさか」 「ゴミ捨て場に子猫が捨てられていた」 子供はそう吾郎に語った。いつも仏頂面の子供だが、今日は本気で怒っているようだった。 「ゴミ袋に入れられて、ゴミとして捨てられていた」 「げ。ほんまか?」 「何故このようなことをするものがいるのだろう。私は同じ人間として恥ずかしい。」 子供は怒り心頭のようすだった。幼い頬を真っ赤に染め、その小さな頭から湯気が出そうほどである。 吾郎は腰を屈めて子猫と目線を合わせた。 白い、小さな子猫だった。瞳は青いビー玉のように透きとおっているが、その目頭にはめやにがこびりついている。ピンク色の鼻のまわりや口の周りは鼻水や涎でべたべたに汚れていた。 なるほど、と吾郎は思う。 「……病気なんかな、この子。それで、飼い主は捨てたんかも知れへんなあ……」 「なんだと」 子供は瞳を見開いた。 「病気だから、この子を捨てたというのか」 「そうかも知れんけど……」 「なんということだ。外道だ。畜生だってそんなことはしない」 子供の瞳に怒りの色が滲む。 「あ、こらどこに行くねん」 「捨てた奴を探し出して一言言ってくる」 吾郎は外に出て行こうとする子供の手をあわてて引っ張った。希望はぎらぎらと光る瞳で吾郎を振り返る。 「離せ」 「こらこら。ちょいと落ち着かんかい」 吾郎は子供の頭にチョップを落とした。すこんと軽い音が響く。 「なにをする!」 「気持ちはよう分かるけど落ち着けって。ほれ、まずせんといかんことがあるやろ?」 吾郎は目線で希望の抱いている猫を示してみせた。 ぼろぼろの子猫は鳴きもせずにじっとしている。 希望はそれを見て目を見開き、そうして恥じ入ったように唇を引き結んだ。 「……」 「ほな病院に連れていこか」 「……ああ」 吾郎は大きく息を吐いた。 子猫の具合は芳しくなかった。 獣医は子猫を見るなり表情を険しくし、そうして告げた。 「正直、1日ももたないかと」 ぼろぼろの子猫は先天的な病気があるようだった。しかし詳しい検査はできないと医者は首を振った。 今の状態では子猫自身の命を余計に削ることになる。 そうして獣医は栄養剤を処方してくれたが、それがおそらく気休めにしかすぎないのだろうということは吾郎にもおぼろげながらわかってしまった。 吾郎はてのひらで子猫をすくい取るように抱き上げた。 ぐんにゃりとした身体はひどく頼りなかったが、それでもてのひらに伝わる感触はほんのりと暖かい。 それは、子猫が必死に生きている証にも思えた。 「希望。家に連れて帰って看病してやろうな」 傍らに居る子供は先ほどからずっと黙り込んでいる。 唇を引き結び何かに耐えるようにしていたが、吾郎の言葉を聞いてこくんと頷いた。 そうして吾郎の手のひらのなかの子猫を見てぽつりとつぶやく。 「……吾郎。私に抱かせてくれないか」 「……すまんな」 病院からの帰り道、希望がふいに声をあげた。 「ん?」 「私はまだまだ未熟者だ……。さきほどは怒りにまかせて、子猫の身体のことを考える余裕もなかった……」 吾郎は子供を見下ろした。 子供は何かを押し殺したような表情をしている。それは子猫を捨てた者に対する怒りだろうと吾郎は思っていたのだが、どうやら違うようだった。 「私は…私が恥ずかしい……」 すまない、と子猫に対しても声をかける。 吾郎は瞬き、そうしてやんわりと微笑んだ。 「……お前、ええ奴やなあ」 「……?何か言ったか?」 何も、と吾郎は首を振る。 この子供は強い。 客観的に自分の非を認めることができるのは稀有なことだということを吾郎は知っている。 それは大人にだって、いや、大人だからこそ難しいことだった。 怒りを覚えるのは当たり前のことだった。実際吾郎だって腹が立っていた。 それを抑えることができたのは目の前に自分以上に怒っている希望が居たからであり、だからこそかえって冷静になることができただけだ。 自分が希望の立場だったらおそらく泣いて喚いて怒って、それこそ大変だったろう。 そうして思った。 この子供は一体どんな大人になるのだろう。 ……そのころまで一緒に居れたらええんやけどな。 ぽつりと思い、そうして吾郎はひとりで苦笑を洩らした。 子猫の看病といってもほとんど何も出来なかった。 家に連れて帰り、寝心地の良いようにダンボールの中にタオルを重ねる。 買ってきたスポイトで暖めたミルクと栄養剤を混ぜたものを飲ませる。 しかしそれ以上は吾郎には出来なかった。 やわらかなタオルの上でくったりとうずくまっている小さな命はあまりにも儚く、そうして何も出来ない自分にやきもきした。 子猫の側から離れようとしない希望もおそらく同じ気持ちなのだろう。 子供はダンボールの中を覗き込んだままほとんど動かなかった。時折指を出してその小さな頭を撫でると子猫がかぼそい声をあげる。 それを見ると希望はいっそう顔をしかめ、そうして押し黙るのだった。 夜中になっても希望は寝ようとはしなかった。ダンボールの側でじっと座り込んでいる。 吾郎だって同じ事だったが、夜になって赤谷家の猫であるきなこさんが帰ってきたときだけその相手をしてやった。 「ごめんなきなこさん。子猫がいるんや」 猫は自分の家によその猫が入り込むことをひどく嫌う。 それを思い出しながらそう言ったのだが、当のきなこさんはシーチキンに顔を突っ込みながら満足げにぶにゃあと鳴いただけであった。 「あ、きなこさん……」 一度だけきなこ色の猫はダンボールの中を覗き込んだ。 しかしきなこさんは子猫の匂いをふんふんと嗅ぐと、希望と吾郎を見上げてぶにゃあと鳴いてみせた。 そうしてすぐに部屋の隅で丸くなり、寝てしまった。 「…怒ったのだろうか……?」 「……いや。多分違うやろ」 夜は静かに更けていく。 子猫を見ながら、やがて希望がぽつりと洩らした。 「……吾郎」 「うん?」 「何もできないというのは辛いな……」 「そうやな」 吾郎は子供を見下ろした。 「希望、お前寝てもええんやで。あとは俺が見とくさかい」 しかし子供は頑なに首を振る。そうして傍らに居る男を見上げた。 「お前こそ寝ておいたらどうだ。明日も仕事だろう」 「いや、だって俺かて心配やもん」 「私だってそうだ」 白い子猫は小さく震えている。 それをなすすべもなく見守りながら、吾郎はそりゃあそうやな、とつぶやいた。 学校も仕事も大切なことだ。 しかしおそらくもっと大切なこともある。 朝方近くになって子猫は痙攣を起こした。 そうして声をあげながら狭いダンボールの中を暴れまわる。 「……っ!」 「お、おい!」 吾郎は慌てて手を差し入れて暴れまわる子猫をすくいあげた。てんかんというやつだろうか。口元から泡を噴いて小さな身体を引きつらせている様子は見ていてあまりにも痛々しかった。 やがて痙攣も治まり、子猫は静かになった。 希望は顔面を蒼白にして子猫を覗き込む。そうしてぽつりとつぶやいた。 「息を…していない……」 子猫は庭に埋めることにした。 吾郎はかるく鼻をすすった。男が涙ぐむなんて情けないとは思うが悲しいものは悲しい。 ぼろぼろだった小さな身体。 それでも必死で生きようともがいていた子猫があまりにも哀れで、何もしてあげられなかった自分がひどく情けなかった。 一緒に過ごしたのはほんの数時間。 それでも子猫は確かに赤谷家の一員だったのだから。 すると隣に居た子供が低く声をあげた。 「泣くな。男がそう簡単に泣くんじゃない」 吾郎は子供を見下ろした。 希望は子猫の墓をみつめたまま微動だにしていなかった。 いつものような仏頂面で、じっとその場に座っている。 小さな手は土に汚れていたがそれを払おうともしなかった。 「せやけど、お前……」 袖で目をこする。 傍らの子供は泣いてはいなかった。 考えてみれば、いまだかつて吾郎はこの子供が泣いている所を見たことがない。 「……名前」 「うん?」 ぽつんとつぶやかれた声に目線を移すと、希望は淡々とした表情のまま盛られた土をその指で撫でていた。 「名前ぐらいつけていればよかった……。これでは、墓に名前を書くこともできない」 「……」 吾郎は子供を見やった。子供の表情は変わらないように見える。いつものような無表情。 第三者から見れば、まったく変わりのないような顔。 しかし吾郎は小さく息を洩らした。それは呆れたような、苦笑交じりのものだった。 そうしておもむろに手を伸ばすと、躊躇なく子供の汚れた手を握った。 「な、なにをする……」 このいじっぱりの頑固者。 吾郎は思いながらその小さな手を握り締める。 吾郎の手だって汚れている。たった今ふたりで土を掘り、命を失った身体を埋めたのだから。 希望はその間も一度だって泣かなかった。 いつもの仏頂面で黙々と土を掘っていた。 しかし吾郎には何となくだがわかっていた。 すまない。 私は何も出来なかった。 何もしてあげられなかった。 申し訳なくて、そんな自分が情けなくて、あまりにも悔しい。 そう思っているに違いがなかった。 それでもこの子供は泣かない。泣くことを恥としている故に決して泣かないのだ。 馬鹿だなあとは思う。 しかしそれでもそれを強要するつもりはなかった。 それは子供が大切にしている、亡くなった祖父の教えであるのだから。 しゃあないなあ、と吾郎は思った。 苦笑を浮かべて男は言う。 「まあええわ」 「何を……」 「うん、お前は泣かんでもええよ。そのかわり俺がお前の分まで泣いたるから」 子供は驚いたように目を瞠った。 目線の先の男はいたずらを思いついた子供のような顔で笑う。 「だから、俺がこの手からお前の感情を掃除機みたいにぎゅんぎゅんと吸い取って、お前の分まで思いっきり泣いたるって」 「何を、馬鹿な」 吾郎の馬鹿げた答えに子供はいっそう瞠目する。 しかし男はそれには構わず、握り締めた手にかすかに力をこめた。 吾郎は本気だった。そうできればいいと本気で思った。 ガキ臭いのは承知の上。 それでもいいと吾郎は思う。 子供はぽかんと吾郎を見上げていたが、やがて墓に視線を戻した。 むっつりとしたその表情は変わらない。 しかし吾郎に握られた手を振りほどこうとはしなかった。 どのくらい時間がたったのだろう。 夜が明け始めていた。 闇を滲むように染め抜き、一条の白い光が庭先を照らしていく。 「……あ。きなこさん……」 しばらくして、ふいに希望が声をあげた。 希望の視線の先に目をやると、きなこ色の猫が塀の上に佇んでいるのが視界に入ってきた。 猫はしっぽをゆらりと動かし、そうしてその首を伸ばす。 きなこ色の毛並みが朝の光に照らされて金色に光っていた。 そうして猫はひとこえ声をあげた。 高らかに。 高らかに。 ふたりに何かを、伝えるように。
名前のない子猫
2008.10.4 |