■星に願いを■




流れ星は願いを叶えてくれるという。


願う事はたったひとつ。


他には多分、何も要らない。


だから、どうか。


・・・私の願いは・・・・。







星に願いを









さあ出かけるで、と希望の後見人である赤谷吾郎はそう宣言した。


「出かけるって・・お前は今帰ってきたばかりじゃないか。」
希望はさすがに呆れてそう言ったが、青年は実に機嫌良く笑っている。
「だってな、今日は晴れるんやて!」
「・・・そうらしいが・・。」
希望は、夕方から晴れると天気予報でいっていたことを思い出した。
その予報は見事に的中したようだった。朝はさんざんな雨だったが、今の空には綺麗なオレンジ色の光が満ちている。


「なっ、お前なあ、なんでそんなに落ち着いてんねん。」
青年は出迎えに出てきていた少女の頭をぽんと叩きながら靴を脱いだ。
そうしてわざとらしく肩をすくめる。
「あんなあ、今日は年に一度の七夕やぞ。この日が晴れるなんて珍しいんやで。」
「・・・ふうん。そうなのか。」
「そうなのか、やあらへんっ。」
青年は居間にかけこむと戸締りを始めた。
希望がぽかんと見ていると、青年はさっさと希望を外に押し出して、そうして盛大に笑った。
「よっしゃ、行くで!」


外に出てみるとそこには一台の自転車が鎮座していた。
よく見るタイプの自転車だが、実のところ赤谷家には自転車はない。
どうしたのだと聞くと、大家さんに借りた、とあっさりと答えた。
「ええ人やわ〜。俺、大家さん大好きや。あ、お前ウシロな。」
ちょっと遠いから、と言いながら吾郎は希望を抱えようと手を伸ばす。
希望はあわててその手を払った。
そうしてきょとんとする吾郎を睨み上げる。
「抱えるな。自分で乗れる。」
「うわー可愛くないなあ。この意地っ張りー。」
「うるさい。」




びゅうびゅうと風の音が流れていく。
7月の風は暖かい。
しかし夕方になるとその風にもわずかに冷たいものがまじり、希望の肌を滑っていく。
希望は目の前の背中をじっと見やった。
風にあおられて背中のシャツが大きく膨らんでいる。
それがはたはたと顔にあたって、希望は瞬いた。
「しっかりつかまっとかんと落ちるでー。」
「・・・。」
希望は一瞬だけためらったが、やがて黙って目の前の背中にしがみついた。
思いのほかしっかりとした筋肉は厚く、その手は回しきることはできなかったので、半端なところでシャツを握った。
ペダルは勢いよく漕がれている。



右。左。右。左。



吾郎はいかにも気持ち良さそうにペダルを漕いでいた。
顔を上げるとその横顔が目に飛び込んできて、希望はかすかに息を飲んだ。
夕焼けに照らされて吾郎の髪は秋の稲穂のように金色に光っている。楽しげに細められた瞳も金色の光をはじいていた。



右。左。右。左。




規則正しくペダルは漕がれていく。
希望はその度に左右に揺れる身体にまわした手の力を、ほんの少しだけ強めた。



やがてオレンジ色の光は山の稜線に滲んで薄らいだ。かわりに、藍色の絵の具を水で溶かしたかのように空の色が塗り替えられていく。
あ、と希望はその空を見たまま声をあげた。
薄い藍色の中にぽちりと光るものがあった。
「あー、一番星やな。」
うん、と希望は頷く。
自転車を1時間以上漕ぎ続けているというのに吾郎の声に疲労の色はない。
「・・吾郎。」
「うん?」
「どこに行くんだ?」
星を見に行くのだろうということは予測はついていたが、その場所にはさっぱり検討がつかなかった。
河川敷の長く伸びる道を、ひたすら走っていく。
吾郎は自分の肩越しに子供の顔を見やった。
そうしていかにも楽しげに頬を緩める。
「着いてのお楽しみや。」





右。左。右。左。





振動は心地よかった。
背中越しに聞こえる呼吸の音も心地よかった。
涼やかな風と、その身体のあたたかさだって心地よかった。



希望は瞳を閉じる。




右。左。右。左。

右。左。右。左・・・・・。






「希望。着いたで。」
吾郎の声に瞳を開けると、辺りは見事に真っ暗だった。
「なんや、お前寝てたん?よう落ちんかったな。」
吾郎は笑っているようだった。けれどその吾郎の顔さえよく見えない。
「・・・。」
片手で目をこすりながら、ぱちぱちと瞬いていると次第に闇に目が慣れてきた。
聞こえるのは水の音。そして虫の声。
水の音は流れていた。川の流れる音だ。
「ここは・・。」
問うと、疲れを知らないかのような闊達な声が答えた。
「ふふん。川の上流や。河川敷の終点。」
「・・・・上流・・・どうしてこんなところに・・。」
「希望。空、見てみい。」




言われるがままに空を見上げた希望は、その明るさに息を飲んだ。
その夜の空は闇色ではなかった。
無数の輝く星が空を埋め尽くし、そのひかりは闇をも照らして藍色に染め抜いている。
ひとつひとつは小さな星たち。
けれどもそのひかりはまばゆいばかりだった。
空があまりに明るすぎて、そのために辺りの闇がいっそう深く、濃く見えるのかもしれなかった。



「綺麗やろ?」
吾郎の声が聞こえた。
見上げると、希望がしがみついたままの青年も空を見上げていた。
「秘密の場所なんやぞ。」
声にはどこか誇らしげな響きがあった。




希望はその横顔を眺めやった。
もしかして、これを自分に見せるために何時間も自転車を漕いできたのだろうか。
それだけのために。
たった、それだけのために。


・・・。
・・・・やっぱりこいつは馬鹿だ・・。




しかしそう思うと同時に何かが胸にこみ上げてきた。
あたたかで、ふわふわとした何かだ。
最近良く訪れる、正体不明の何か。
「・・・。」


希望は唇を引き結んで、あわててその横顔から目を離した。
見上げるとその星空は延々と広がっている。
まるで吸い込まれてしまいそうなほど、その空は深かった。
「綺麗やけど、こういうの見とると凄い心細くなるのは何でなんやろうなあ。」
「・・・。」
「なんか、こう・・あんまりにも凄すぎて、でか過ぎて、ひーろいところで迷子になったような気になんねんな。」
希望は頷いた。
その気持ちはなんとなくわかるような気がする。
例えばたったひとりでこの夜空を見たらどう思うのだろう。
降るような星の中で、たったひとり。
きっと、と希望は思った。
あのときのような気がするに違いない。
祖父の通夜。
道場でひとり座っていたときのようなあの気分。



「けどなあ。」
吾郎は笑った。
「今はお前がおるから怖わないわ。」
さらりと言われて希望は返事が出来なかった。
声がでなかったのだ。
吾郎は振り向き、傍目には仏頂面な少女の頭を優しく叩いた。
「・・へへ。つきあってくれて、ありがとうな。」







帰りも吾郎は規則正しくペダルを漕いでいく。
来るときよりもそのスピードは幾分遅く感じられた。さすがの吾郎も疲れたのかもしれない。
ゆっくりと、交互にペダルは回る。


右。左。右。左。



その背にしがみついたまま、希望は流れていく星空を眺めていた。
その星空はちっとも怖いものではなく、ただひたすら綺麗で壮大だった。
それがのんきに鼻歌を歌っている男の所為だということもおぼろげながらわかっていたので、希望は黙って自転車に揺られていた。


右。左。右。左。




その時つい、と空を一筋の光が流れた。
あ、と思ったときには夜に溶け込んでしまったそれの正体を、希望は知っていた。

流れ星だ。


本でしか読んだことはなかったが、あれが流れ星というに違いがなかった。
吾郎に教えようとしたが、一瞬だけ考えて、希望は口をつぐんだ。
かわりに瞬きもせずに星空を眺める。



ほどなく細い光が流れた。



「ん?希望、なんか言ったか?」
吾郎は背中にくっついている子供に声をかけた。
ふいに子供がぼそぼそとつぶやいた気がしたのだ。
しかし子供はあっさりと答えた。
「・・なんでもない。」
「・・?そう?」
「いいから運転に集中しろ。」
「へいへい。」



希望は消えていった光の筋を眺めた。


流れ星は願いを叶えてくれるという。

願う事はたったひとつ。

他には多分、何も要らない。

だから、どうか。


・・・私の・・・願いは・・・・。









星に願いを











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