「へびの夫婦」頂きもの小説

マオ様より「へびの夫婦」の頂き物コラボ小説




「こっち、磨き終わったよ。手伝おうか?」
 磨いていた石塚の反対側、隠れるようにして、ちまちまと、だが丁寧に石を磨いていた白い女の子に向かって俺は声を掛けた。だが、塚の陰から首だけ覗かせる俺によほどびっくりしたのか、その白い女の子は綺麗な紅玉みたいな瞳を怯えたように見開いたかと思うと、小さく身を縮めて仔栗鼠のようにぴるぴると震え出した。
 ……随分と人見知りの激しい女の子だなぁと思う。女子供と老人、自慢するわけじゃないけど、特に女の子にはあまり嫌われたことのない俺は少なからずショックを受ける。
「オメー、なに姐さん怖がらせてんだよ!」
 荒い言葉とともに後ろから足蹴にされて、思わず「いてっ」と声を上げる。振り返ると赤い髪をした、やんちゃ盛りといった雰囲気の男の子が腕を組んでふんぞり返り、俺の肩先に足を掛けて踏みつけていた。石塚の反対側から白い女の子が慌てて身を乗り出し、赤い男の子を窘める。
「赤坊、おやめ。……青坊は?」
「この馬鹿迷子のために茶の準備してますよ」
 馬鹿迷子。足蹴にしたままの赤い男の子の憮然とした言い様に俺は、ぐっと言葉に詰まる。色々とご迷惑をおかけしてしまってすみません。仰る通りです。



*****



 今日、俺はお客様の処に商談に行く予定で出張してきた……はず、だった。
 しかし辺りは森。それも深緑なんて生易しいもんじゃない、先の見えない蒼くて真暗い森。もういっそ化け物でも出てきそうな勢いの深さだった。この間出た給料で新調したばかりのスーツの裾は茨に取られて解れるし、ズボンに付いたひっつき虫は、ちくちく肌を刺すしで散々だ。大体、こんな処に本当にお客様なんているのかと、ぶつぶつ愚痴りながら、それでも深い草を掻き分け押し退け、ガサガサと森の中を進んでいた俺だったが、目の前一面、樹木だらけ草だらけだった視界が、ふっと急に拓けたのである。
「……なんじゃこりゃあ……」
 思わず俺の口から漏れたのは、かの有名な刑事ドラマの台詞と同じものだった。
 丸い大きな、鏡みたいにぴかぴかしている大きな塚石を中心として、それを五方から囲むように幾何学模様に少し小さめの同じような石が配置されている。そして、今気付いたけど、俺が今立っている地面に刻印されるように描かれた紋様───そっと片足を退けた下から顕れたそれは青白い光を放っていた。俺の師匠が操る術とは違う、何某かの強力な……決して悪いものじゃないけど、ある種の強いまじないの類いだと言うのだけは、未熟者の俺でも理解ができた。
 ……『ここ』は、明らかに、マズイ。溜息混じり、俺は頭を掻き回した。この場所自体は静かで、そして綺麗だ。耳が痛くなるくらいの静寂に包まれていて、空気の澱みもなく清浄で───そう、まるで人気のない神社みたいではあったけれど、却ってそれが俺には怖い。早々に立ち去った方がよさそうだ。元来た道を回れ右をしかけた俺であったが、
「ここになにをしにきた」
 不意の誰何……女、というよりは女の子の声が響く。ぎくっとなって俺は頸を巡らせて辺りを見回した。人の気配はないし、誰もいない。さわさわと、流れた微風が周囲の木の葉を揺すって静謐な空気を騒がせた。
「ここは蛇五衛門の塚であるぞ。それを知っての狼藉か」
 『じゃごえもんのつか』? なんですか、それ。……って、この真ん中にあるでっかい石のことかな。いや、その、俺が『狼藉』とかってのもよくわかんないんですけど。俺、ただの迷子だし。
 それに、この声。口調こそ厳めしいものであったけど、小さな女の子のもののようにも思えたし、年配の女のもののようにも感じる。精神感応(テレパシー)とか頭の中に響く類いのものじゃなくて直接口から発せられている言葉だし、多分すぐ近くに声の主がいるんじゃないか。……それこそ、あの大きな塚石、『じゃごえもんのつか』とやらの後ろとか。
 声の主のいそうな場所に当たりをつけた俺は塚石の方へと、つかつかと足早に、一直線い向かって行く。案の定、塚の陰から明らかに、びっくりしたような、あわあわしているような気配が伝わってきた。俺はなるべく驚かさないように、塚石をぐるりと回り込むと、そこにいるであろう声の主に向かって言葉をかけた。
「こんにちは」
 ……とは言うものの、俺は正直反応に困った。果たして、そこにいたのは、厳つくて恐ろしい鬼───ではなく、その面を被り、鍬を持って必死に立っている小さな子供であったのだから。しかも、この子、本人は仁王立ちのつもり…なんだろうけど、かなり無理をして踏ん張って立っているのが解る。小さな身体を、これが見ていて可哀想になるくらいに、ぶるぶる震わせながら鍬を慣れない手つきで構えて……って、ちょっと待て! なんですか、このシチュエーション!! これってまるで俺が虐めてるみたいじゃないかあああ!
「……え、えっと! ホラ! 節分はまだ、だよねっ!?」
 何かよく、わかんないけど! 何か事情があるんだろうけど!! とっ、取り敢えず、武装解除の説得からしないと! 俺は小さな女の子に目線を合わせるように、しゃがんで問い掛けてみた。怖い外見とは裏腹、鬼の面の下で明らかに動揺しているのが伝わってくるけど、俺は怖がらせないように、努めてにっこりと笑いかけた。
「女の子がそんなもの振り回したら危ないよ? だから、そんな物騒なもの、置いてね?」
 相手の視界の上から手を伸ばしたら『撲たれる』って身構えさせるけど、徐々に視界に入って行くように下から手を延ばしていけば、犬は怯えませんって、一体何で識ったんだっけ───小さい女の子を怖がらせたとか初めてのことで完全に動揺していた俺は、そんな馬鹿なこと考えながら、そおっと指を伸ばした。
「……あ…っ」
 それが触れるか触れないかの処で、何かの拍子、留め紐が切れたのだろう。女の子が思わず声を上げ、面がするりと地面に落ちる。精一杯厳つくて怖い造りをした鬼の面の下から顕れたのは、それに完全に反した、紫の少し混じった不思議な光沢を放つ白い髪と、紅玉みたいに深くて紅い瞳の、小さくて可愛いらしい女の子だった。
 アルビノ、なんだ。神様の御遣いだって言うけど、初めて見た───ぼんやり、そんなことを考えながら俺は暫く、その白くて小さな女の子に思わず見入ってしまっていた。外見の割には、年齢は重ねているような雰囲気もあるんだけど、何だか世慣れしてないっていうのか。白い女の子は、ぱっと俺から顔を逸らした。相変わらず身体をぶるぶると震わせる様に俺は物凄い罪悪感に苛まれる。
 ……いや、だから! だーかーらー、何。何なんだよ、この状況!! なんか俺、傍目にも、すっごく罪業深い男になってるんですけど! 何か上手い例えもないんだけど、深窓のお嬢様に手を出そうとしているチャラ男みたいな、なんか、そんな不埒な感じ!
「……あ、あの……!」
 今の俺をヘタレと言わば言え! 必死で声を掛けようとした俺だったが、それを遮るように、ひゅんっと空を斬る音が聞こえたかと思うと、何かが生き物のように俺の身体に巻き付いてきた。それは俺の動きを拘束し、身体を思いっきり地べたに引き摺り倒した。
 ……って、なにこれ、鎖!? ざざっと剣呑な音とともに、しげみから姿を顕したふたつの人影が俺をがっちりと地面に押さえ込む。
「テメー、姐さんに何しやがる!」
「……」
 鎖で簀巻きになった俺を足蹴にしながらの赤い髪の男の子の威嚇に対し、一方の青い髪の男の子は無言のうちに俺を拘束する鎖を、ぐいっと引いて、頸動脈にぴったりと刃を当ててくる。きゃー、鎖鎌!? うわ、マジですか。俺の首刎ねるんですかぁああああ!?
「赤坊、青坊! 駄目だよ! この人間……!」
 この時、悲鳴のような声を上げてふたりを止めてくれた白い小さな女の子が、その容姿も相俟って俺の目には本当に神様の御遣いのように映ったのだ。そうして、鎖でぐるぐるのナマコにされて涙目になっている情けない俺の傍らに、そっと膝をつくと、怖ず怖ずとこう訊いてきたのである。
「……あ、あの…お困り、なのですか?」



*****



「……すみません。この子達が失礼を……」
「あっ、いえ。こちらこそ、色々と気遣って下さってありがとうございます」
 蛇塚というらしい、例の丸い塚石の掃除のお手伝いを終えると、俺は、そこから少し離れた処で小さな白い女の子を前にして正座してお辞儀する。女の子と俺の間には、お茶とお手製の蓬餅の良い匂いが、ふんわりと漂っていた。白い女の子に言い付けられて、例のちょっと冷たい感じのする青い男の子が運んできてくれたものだけど、赤い子ほど露骨ではないものの、でもあまり彼にも歓迎されてないのだけは、その雰囲気だけで解りますとも、ええ……。
「いえ、本当に助かりました。迷っちゃってたんで」
 あははと笑った俺だったが、それはすぐに乾いたものになって途切れてしまう。……物凄く空気が冷たい。っていうか、寒い。イタイ。ごめんなさい。
 白い女の子は相変わらず俺を痴漢か誘拐犯を前にしたみたいな感じですごく怖ず怖ずしてるし(これはかなり傷つく)、その背後で控えている赤い子と青い子は、俺がちょっとでもおかしな真似したらブッ殺す気まんまんの状態だ。ふたりとも武器を隠し持ってるのも解ってるし……うわ、特に青い子、ガチモードだよ。超おっかねえ。
 完全なアウェー。軽く仰いだ空は俺の心も知らずに呑気なくらいに青い色に染まっている。空に浮かぶ、ふわふわ綿菓子みたいな雲に向かって溜息を吐き出すと、俺は話題を変えることにした。『危機の時こそ馬鹿になれ』がウチの社訓じゃないか。
「えっと、あの石…蛇塚だっけ。あれは、毎日磨いてるの?」
 唐突な俺の問い掛けにびっくりしたのか、白い女の子は考えるように暫く時間を置いてから、こくりと頷いた。俺は、そうなんだと相槌を打つ。
「さっき一緒に磨く手伝いしてた時にそう思った。すごくぴかぴかだし、ちゃんと手入れされてるなあって。とっても大切なものなんだね」
「……」
 女の子は湯飲み茶碗を持った手を膝上に置いたまま俯いてしまう。赤い子は、あーあというように溜息なんか吐いてるし、青い子はブリザード級の冷ややかな眼差しで俺を見るし───一気にその場の空気が重たくなる。どうやら、地雷を踏んでしまったようだ。
 気まずい空気の中、頂いた緑茶を啜る俺の耳に、小さく、ようやく聞き取れるほどの声で、女の子は、ぽつりと言葉を漏らした。護らなければいけないものだから、と。
「……待っている方が、いるから───」
 色々と訳ありなんだろうなあっていうのは誰の目にも明白だ。大体、赤い男の子も青い男の子も、それからこの女の子も───三人とも人間の態はしてるけど、『ヒト』じゃないのはヘタレの俺でも解るし。こんな人の気配のまったくない鬱蒼とした深い森の奥で、明らかに強い術を施された塚石を毎日磨いて、そして俺みたいな馬鹿な侵入者から塚を護っている……祈るように『誰か』を待っている、神様の遣いみたいな白い女の子。何故、あんなにも必死になってまで、この塚石を護っているのか、そしてこの子が『誰』を待っているのか、興味がないと言えば嘘になるけど……でも、それは、訊かない方がいいような気がする。
 いや、訊いてはいけない。ぽっと迷い込んできただけの俺ごときが立ち入ってはいけないような、深い『何か』を本能的に感じ取って……そう、思ったのだ。
「あっ、そうだ! じゃあ、こういうのあるといいのかな」
 重くなった空気を祓うように、ぱんっと両の掌を打ち鳴らすと、俺は努めて明るい声を上げた。それから持ってきていた営業鞄の中からマイクロファイバー雑巾を持っていただけ取り出して、女の子に差し出す。お客様に頒布するノベリティだから、うちの社名が入っていたりするけど、そこはご愛敬だ。
「目が細かいから汚れは綺麗に落ちるし、柔らかい布だから磨いても石に疵も付かないよ。洗ってもすぐ乾くし、長持ちするから、これ使って!」
 白い女の子は、紅玉みたいな瞳を驚いたように、ぱちぱちと何度か瞬かせて、それからおずおずと俺から雑巾を受け取った。不思議そうに俺と手元の雑巾を何度か見比べていたけど、やがてそれをぎゅっと握り締めて……それから、ほんの少しだけ、笑ってくれた。
「……ありがとう」
「どういたしましてー。それから、君にはこれね」
 うわ、可愛い。白い女の子のぎこちない笑顔にちょっと調子に乗った俺は、続けざまに営業鞄から取り出した『ある物』を女の子に差し出す。こないだ買ったばかりだけど、開けてなくてよかった───フランス製のハンドクリーム。
 封を切ると辺りにふんわりと甘い香りが漂い、俺はチューブから絞り出したクリームを女の子の手の甲に少し載せてみる。
「良い匂い。何の香り?」
「えっと、ベルベットローズだって。良い匂いのヤツをテキトーに買ったんだけどね。これを、こうやって手に擦り込んで……手が、つるつるになるから」
 恐る恐る、手の甲の乗ったクリームに鼻を寄せて、くんくんと鳴らしながら匂いを嗅ぐ女の子の前で俺もクリームを少し取って見本を示すように両手に擦り込んでみせる。
「その『待っている人』が戻ってきた時に、そんなガサガサの手をしてたら、とっても心配するんじゃないかな」
 両手にクリームを擦り込んでいる俺を、その紅い瞳を瞠って、はっと見返したのはどういう意味があるんだろうか。言われて初めて気付いた? それとも予想外だった?
 こんな人気のない所でずっと塚を護って、『誰か』を待っているこの子が、一体どんな気持ちでいるのかなんて、脳天気な俺には解らないけど───でも、俺がもし、この白い女の子を待たせている、その『誰か』だったら。戻ってきた時に、あの子があんな荒れた手をしていたら、どれだけ苦労したんだ、どれだけ馬鹿なんだって心配するのを通り越して、きっと怒ってしまいそうな気もしたんだよね……。



*****



「姐さんの言い付けだからな、森の入口まで案内してやる」
 元来た途、なのかな。蛇塚と白い女の子にお別れして、今はまた鬱蒼とした森の中に逆戻り、青い男の子に先導して貰いながら草や茨をざっくざっくと踏み越えて行く途中───隣で連れ立って歩く赤い男の子が、俺にそう説明する。
「時々いるんだよ、お前みたいに迷い込んでくるバカが。その度に俺らが苦労すんだから、大概にしてくれよな」
 ……バカって……。あんまりにもストレートな赤い男の子の言い種に軽く傷ついた俺だったが、すぐに考えを改めた。彼らの立場からしてみたら、穏やかに暮らしてる処に迷い込んだ人間なんて傍迷惑なバカ以外の何者でもないよなあ。
「あの白い女の子に蓬餅とお茶、ご馳走様って伝えておいてね。すごく美味しかったって」
「お、そうだろ? お前、よくわかってんなー! 姐さんの作るモンは何だって美味いんだぜ。あの餅のあんことかはさ───」
「赤坊」
 うきうきと語ろうした赤い男の子を咎めるように、俺の数歩先を行く青い男の子が振り返りもせずに冷たい声で遮った。赤坊と呼ばれた子は、いけねというように口を両手で押さえて俺の方を無言のうちに見遣る。
 それきり、森の中がまた静かになる。俺達が藪と草を踏みしめていく音以外、聞こえない。行けども行けども鬱蒼とした木々と茨と、草むらの悪路を、ひょいひょい慣れたように軽やかに歩を進めて行くふたりに続く俺は息が上がるし、ついて行くのがやっとだ。
 赤坊くんは時々俺を振り返って「しょうがないな」というように合図を送ってくれたりしたけど、でも、一向にこちらを顧みようとしない先導役の青い男の子が一体何を考えているのか、俺はこの時に何となく分かってしまったのだ───。
「案内はここまでだ」
 青い男の子と、そして赤坊くんとに随分と引き離された挙げ句、肩で息をつきながらようやく追いついた俺に、大きな杉の前で待ちくたびれていたらしい青い男の子がそう告げる。赤坊くんがそれに続けた。
「ここをあと少し、真っ直ぐに行けば森から出られる。すぐ傍に神社があるから、あとは下っていけば戻れると思う」
「……あ…ありがと…う」
「それにしても、お前、ぜんっぜん体力ねえなー。大丈夫かよ?」
 膝に手をつきながら、ぜいぜいと肩で息をしている俺に赤坊くんは呆れたような声を上げる。俺、すげえヘタレなんだよ。息を切らせながら、それでも顔を上げて赤坊くんの示す方を見遣ると、遠くに小さな光がぽつりとあった。あれが森の出口なのかな。
 俺は、そちらに向かって重い足を引き摺って歩き始めた。あああ、こりゃ今晩、筋肉痛決定だ───って、いや、『今晩』って、俺にはもうないかもしれないんだけどさ。
 そう考えると、俺はもう一度ふたりの方を振り返った。悪童めいた笑いを浮かべて俺を見送る赤坊くんと、そして、相変わらず極低温の眼差しで俺をじっと見ている青い男の子と、それぞれ視線がかちあう。俺は思わず苦笑してしまった。
 ……じっと見ている? 違う、機会を窺ってるんだろう。まるで蛇が鎌首を擡げるように。蛇塚で白い女の子とお茶をしていた間も、ずっと彼は『侵入者』である俺のことを赤坊くん以上に警戒していたし。そしてここに案内するまでの道程も積極的ではないにせよ、俺が振り落ちればいいくらいには思ってたんじゃないかな。
「じゃあ、お世話になりました。ありがとう」
 俺は深々とふたりに向かって頭を下げて、今度こそ踵を返す。森の出口の光に向かって、敢えてゆっくり歩を進めて行きながら(筋肉が悲鳴を上げてる影響もあるけど)俺は青い男の子が、いつ例の鎖鎌を放ってくるかなあとか考えていた。
 多分、青い男の子の、あの頭の中は、守りたい人を守ることで頭がいっぱいだ。あの神様の御遣いみたいな白い女の子を守るためだったら、俺のことなんて簡単に殺すだろうけど、でも、何となく覚悟はできていた。あの子を守るのが理由なら、俺は殺されたって、いいやって───。
 ……まあ、できたら痛くなく、苦しまない方法でやって欲しいけどさ……。
「おーい、オッサン! 今日の御礼に酒持って来いよぉー!」
 ……だが、背後から俺に向かって放たれたのは、青い男の子の鎖鎌ならぬ、赤坊くんの聞き捨てならない、でかい声だった。ぐぅっと呻いて、俺は仰け反るようにして思わずその方を振り返る。オッサンってさあ……確かに見た目は俺の方が年上っぽいけど、君らの方が俺より遙かに年上なんじゃないかなー。そっちの方が鎖鎌より、ざっくりきたんですけど!
「名前は。オッサン」
 軽く傷ついてる俺に追い打ちをかけるように、不意に口を開いたのは、ずっと黙っていた青い男の子だった。……君までそう呼ぶのかよ、と。溜息を吐く俺の胸裡を読んだかのように青い男の子は続ける。
「お前がちゃんと名乗らないから、そう呼ばれるんだ」
 金色の眼を眇めて、整った顎元を反らしながら青い子は俺に促してくる。確かに君の言う通りだけどさ───……って。えぇと、ちょっと待て待て、俺の名前なんか訊くってことはさ。
「……あの…君は……俺のことは殺さないの、かな」
「お前が、そうして欲しいならそうする」
 我ながら間の抜けたことを訊いてるなと思ったけど、相も変わらず青い男の子は無表情に、素っ気なく応えた。腰元には下げた鎖鎌、でも、ついさっきまで彼に感じていた殺気はもう、ない。
「……だが、そんなことをしたら紫さまが悲しむ」
 その言葉は何だか不思議に柔らかいものに満ちていて、俺は思わず眼を瞬かせた。……『悲しむ』……そうか、あの子は、悲しんでくれるんだ。
 そもそも迷子になったとは言え、深い森の奥で静かに暮らしている彼らの平穏を乱したのは、俺だ。愚かで、悪い人間に捕まらないように身を守るため───いや、『生きる』ために君らに殺されたって不思議じゃないし、俺もその覚悟は決めてたんだけどね。
 ムラサキちゃん。それが、あの白い小さな女の子の名前。俺なんか殺せばいいのに、お人好しだなあ……俺は込み上げてくるものが胸の辺りを温かく浸していくのを感じて、思わず、えへっと笑ってしまった。
「紫ちゃん、かぁ。可愛い名前だね」
 噛み締めるように独りごちて、俺は懐から取り出した名刺を青い男の子に差し出す。勤め先の上司から、お前はそれだけは取り柄だなと、お褒めとも嫌味とも付かない評価を貰った、とびっきりの営業スマイルを浮かべながら。
「総合商社岡基堂 サービス企画課の牧静眞と申します。これ、連絡先です。何かお困りの際にはいつでも此方までご相談下さいね」
 ……お人好しで優しいあやかしの紫ちゃんが困ったら……ヘタレな俺で良かったらいつでも力になるからね───。



*****



 ───迷い込んだ蛇塚の森から戻った、その夜。俺は、夢を視た。
 息もできない、それはもうひどい金縛りにあった上に、夢の中で大蛇のような太くて長い尾を身体に幾重にも巻き付けた、神々しい男が俺を血走った目で睨んでいた。紫紺の髪に漆黒の瞳の、陳腐な表現ながら、それはもうこの世のモノとは思えない禍々しい美形で、俺は文字通り蛇に睨まれた蛙状態で、あわあわするしかなかった。
 『てめぇ、たかが人間ふぜいが、なに俺のモンに手を出してんだ』
 その禍々しい蛇の神様は俺に向かって、そう威圧してきたのである。恐怖のあまり言葉にならない、音階の壊れた楽器のような絶叫とともに、俺はベッドから派手な音をたてて転がり落ちた。
 目が、醒める。混乱しながらも深呼吸してなんとか気持ちを落ち着かせると、徐々に周囲の風景が───宿泊している小さなビジネスホテルのくすんだ天井が目に入ってきた。
「……なんなんだよ、あれ……」
 夢であったことにほっとして、大きな溜息をひとつ。まだ心臓がどきどきして、呼吸が収まらない。手を押し当てた額も、そして身に着けたTシャツと短パンも、ぐっしょりと水浴びした後みたいに自分の汗で濡れていた。
 夢にしてはあまりにリアルだったので、気になった俺は出張から帰ると、寺の住職をしながら『拝み屋』の仕事をしている師匠に相談してみた。初めのうちこそは俺の話を興味深く聞いていた師匠だったが、話が進むにつれて段々と眼が座り始めた。
 ……うっわあぁぁ、おっかねえ。目ェ笑ってねえ! っていうか、俺なんかマズイことしたか? いやいや、『今日は』『まだ』『何も』してない筈だ!
「……お前、よく無事で済んだな」
 剃髪して、綺麗に剃り上げたこめかみのあたりを、節くれ立ったごっつい指先で押さえながら溜息をひとつ。呆れたような口調で師匠が説明するには、俺がせっせと磨いていた石塚は蛇五右衛門という蛇神を封じた封印石であり、件の紫ちゃんという白い女の子は蛇五右衛門の妻にして、塚の守人である蛇骨婆と呼ばれるあやかし、そして赤と青の男の子ふたりは、その従者のあやかしだろうとのことだった。
 ……へっ、蛇神ぃぃぃ!? マジですか!? っていうか、蛇神ってなに、蛇神って! いやいや待て待て。あの子、そんな凄い神様の奥さんだったんだ!? 蛇骨婆? そんな風には見えなかったけど。
 人見知りが激しくて、でも迷子になった人間の俺を助けてくれたり、心配したりするお人好しの白い小さな女の子。出してくれたお茶も、蓬餅も美味しかったな。手が、あんなにガサガサになるまで石塚を毎日磨いて、護って、旦那さんである蛇神の帰りを待っている紫ちゃんのことを考えると、蓬餅の御礼とか考えてしまう。……あっ、タルトとか好きかな。こないだ会社の女の子に美味しいお店教えて貰ったし。また近いうちに向こうには出張に行く予定が入ってるし、今度お土産に持って行こう。あと、あの赤坊くんにはお酒も持っていかなきゃ。
 透き通るように白くて、小さな、あの神様の御遣いみたいな紫ちゃんの姿を、ぼんやり思い浮かべていると、不意に師匠に胸座を掴まれる。そのまま絞め上げられたかと思うと、ふわりと身体を浮遊感が包み、俺はそのまま床に叩き付けられていた。あああ、いつものパターンだ……。
「何を呑気なことを考えてるんだ、お前は」
 顔が笑っているのに、眼が笑っていない。そのまま肩関節と肘関節を極められて、板床とお友達になった俺の頭上から、こめかみの血管を怒りに浮かび上がらせた師匠の言葉が降ってくる。
「大方、お前が妻に手を出したことで悋気深い蛇五右衛門が警告を入れにきたんだろう。お前は馬鹿か、八岐大蛇とも言われる蛇神なんぞに祟られたら、伝説の陰陽師、総麻呂でもなければ手には負えんぞ」
「……サイっテー」
 そして、隣にいる姉弟子からは物凄く蔑んだような一瞥とともに、心臓にざっくりと突き刺さるような、キッツイ一言を頂いてしまう。
「手を出したとかって、何ですか。俺、そんなつもりないですよ! そりゃ可愛い子だったけど、小さい女の子だったし! ふたりとも何でそんな冷たい目で俺を見るんですかああああ!」
 床に押さえ込まれた俺の必死の言い訳は、あまりにも虚しく響いた。










2013・5・12




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