蛇骨族の周囲が騒がしくなってきたのはその頃からでした。
蛇骨族の住む土地は西の果て、巨大な湿地帯の真ん中にあります。そこにある広大な土地に、いつからかこの化け蛇の一族は住みついておりました。
巨大な蛇の尾をひとふるいして翼をもつ鬼に似た生き物を叩き潰した時貞は、かすかに眉をひそめました。これで何体目でしょう。今日だけで数十匹は殺したように思うその生き物は、最近蛇骨族の都のまわりを飛び回っている不可解で凶暴な生き物たちでした。
「さすが時貞様だ! 」
「お一人で全部倒してしまわれた! 」
後方でわあっと蛇骨族の兵たちがざわめきます。時貞ほどの妖力があれば簡単に倒せる相手ですが、一介の兵たちでは一匹倒すのも数人がかりなのでした。
しかし時貞はその感嘆の声をよそに、自らの尾の下にある鬼の死体がすうっと消えていくのを黙って見下ろしておりました。
周囲を見渡しても、死体はひとつたりとも残っておりません。
残っているのは何やら紋様の描かれたぼろぼろになった紙切れのみでした。
時貞は眉を顰めます。
「……おい、この紙切れは全部回収して族長に報告しておけ」
きなくさい匂いを、本能で感じ取っておりました。
このような日は、女と肌を合わせたくなります。
そう思ったときにすぐに脳裏に浮かんだ姿は、白い髪に赤い瞳のちいさな娘の姿でした。
しかし彼の矜持はそれを許しませんでした。
そう思った己自身に内心で舌打ちをし、ひっそりと頭を下げる白い髪を視界の隅でみながら、別の女を閨に呼ぶのでした。
その女の赤い髪は、娘の赤い瞳にどこかしら似ておりました。
床に広がったそれを指で梳きながら、静かに口角を持ち上げます。
このところ選ぶ側室は、どこかしらひとりの娘の面影を持つものばかりでした。
それが偶然ではないことは、時貞自身も薄々感づいてはおります。
しかしそれを決して認めたくはなく、だからこそ毎晩、こうして己を慰めているのでした。
鬼のような生き物たちの正体は、要としてしれませんでした。
しかし時折現れるそれを殺すのは時貞の役割です。
ほぼ毎日のように出かけて行きながらも、事態の進展はみられませんでした。
そんなある日のことです。
時貞が館に戻ると、いつものように側室たちが出迎えに並んでおりました。
おかえりなさいませ、と華やかに迎える女たちをよそに、時貞の視線は白い娘の姿を求めておりました。
しかしどうしたことでしょう。
いつもは側室たちの陰にそっと隠れるように頭を下げている娘の姿がないのです。
時貞は内心眉をひそめました。
どこに目を向けてもその姿はありません。
紫はどうした、と一言問いかければよいのですが、それも彼の矜持は許さないことでした。
「紫様がおられませんわね」
くすり、と微笑みとともに声を上げたのは側室の中でもいっとう華やかな、赤い髪に、まだら模様の蛇の尾を持つ娘でした。
「仮にも正室でらっしゃるのに、時貞様に対してなんと失礼なことをする娘なのかしら」
その侮蔑の言葉を多分に含んだそれに、くすくす、と周囲で笑みが巻き起こります。
時貞が望んだように、紫の立場は館で一番低い位置におしさげられているようでした。
――何故迎えにこない。
あの場は、時貞が無条件で紫の姿を認めることのできる唯一の場所でした。
なのに、何故。
――くそ。
もはや閨に女を呼ぶ気分にもなれず、自室で酒をあおっていた時貞は、ふいにその腰をあげました。
苛々と月を睨みあげます。
白い月は闇ににじむように美しく輝いていましたが、やはりあの娘の白い髪を視界の隅にとはいえいれている方がましだと思いました。
――閨に呼ぶか。
最近、時貞が紫を呼ぶ回数は増えておりました。
あいかわらず何もせず、ただ部屋の隅において酒を飲むだけでしたが、時貞自身は「呼びたい」と感じる己自身に苛々としておりました。
だからこそ数日は呼ぶことを避けていたのですが、今は話が違いました。
思えばこれまで、紫が見送りや出迎えをかかしたことなど一度もなかったのです。白い髪や赤い瞳を一日に二度は視界に入れることができていたのでした。
そのことに気づいた時貞は苛々と廊下へ出ます。
本来であれば、女を閨に呼ぶのは従者を通じてでないとなりません。しかし今の彼は我慢できませんでした。大股で紫の自室へ向かいます。
そうして、いくつかの廊下を曲がったところでした。
どん、と腹に何かがぶつかったことを感じた時貞は、衝撃で廊下に転がった下男であろう少年を眺めやりました。そうして眉を顰めます。
「……おめえ、懐に何を持っている? 」
あわてて平伏しようとしていた少年の肩がびくりと震えました。ついでがたがたと震えだします。
それほど時貞の声は冷たいものであったのです。
少年は瘧のように震えながらも答えました。
「い、いいえ、なにも……」
時貞は黙ってその肩を蹴飛ばしました。少年は横ざまに倒れます。その首元に時貞は自らの蛇の尾をぐるりと絡ませてやりました。
「……このまま首をちぎられてえのかい? 」
顔は笑んでいるのにその声は底冷えするほど冷たく、そして静かな殺気をはらんでおりました。
脅しではないことを悟ったのでしょう。涙を流しながら少年が取り出したのは、ひとつの麻の袋でした。なにやらもぞもぞと動いております。
「お、おれは何も知らねえんです。ら、蘭菊さまに、これを始末してくるようにいわれただけで、それだけで……い、命ばかりはお助けを……」
蘭菊とは側室のひとり、赤い髪にまだらの蛇の尾をもつ女のことでした。
へえ、と時貞はつぶやきます。唇には薄い笑みが張り付いておりました。
時貞は麻の袋に手を伸ばします。
その中身、あの白い娘の匂いが強く染みついたその生き物には検討がついておりました。
はたして袋の口をあけた途端飛び出した青い子蛇は、狙いをはずさず時貞の指に噛みついてきました。それを見た下男の少年がひゃあと声を上げましたが、時貞はただいっそう冷たい笑みを深くするだけでした。
「よお、青蛇。こうして会うのははじめてだなあ」
その青蛇は時貞の手のひらの大きさもない子蛇でした。
だというのにその金の瞳は敵意にらんらんと光っておりました。指に噛みついた牙を緩める様子もありません。
時貞は転んだままの少年をそのままに、自らは紫の自室に向かって歩き始めました。
指には子蛇が噛みついたままです。
しかし彼にとっては蚊にさされたほどの痛みも毒もなかったので、薄い笑みを浮かべたまま青蛇に向かって口を開いてやりました。
「青蛇、お前は青坊というのだろう? いいことを教えてやるよ。俺はな、おめえらの大好きな紫ってえ娘の旦那だよ」
青蛇の牙が少しばかり緩んだように思えました。金色の瞳がちらと時貞をみているのがわかります。単なる子蛇と思っておりましたが、娘が子蛇に寄せる深い情のためか、あやかしという存在になりかけているのかもしれません。
――ああ、こいつは気にくわない。
直感で感じとった時貞は、だからさらにこう告げてやりました。
「いいか。あの娘は俺のもんだ。頭の先から足の先まで、一片残さず俺のもんなんだよ。せいぜい覚えときな」
やはり言葉がわかるのでしょう。青蛇の瞳にさっと敵意が走ります。
それを見て時貞はにやにやと瞳を細めました。
そうしてしばらくして。
渡り廊下を歩いていた時貞の耳は、かすかなかすかな娘の声を風のはざまに拾いました。
時貞は指に青蛇をぶらさげたまま欄干を乗り越え、庭に向かいます。
しばらく歩くといばらのしげみがあり、そこを必死になってかきわけている娘の姿がありました。
青坊、青坊、と震える声で呼びながらいばらをかきわけています。着物だけでなくその白い肌までがあちこちが破れ、血がにじんでいるようでした。
長い間あちこちを探し回ったのでしょう。下履きもぼろぼろで、土や泥に汚れておりました。白い髪とて例外ではなく、ぼさぼさに乱れた上にいろいろな葉っぱがくっついておりました。
時貞はその姿を黙って眺めておりました。
さきほど青蛇に対して感じた優越感などとうの昔に消え去り、なにやらさまざまな感情が身の内を渦巻くのを感じました。
それは良いものも悪いものもまざっているようでした。
この娘のこのような行動を愛しく思う感情と、子蛇ごときにそこまでするなという嫉妬めいたものでした。
「……おめえは愛されているな」
笑みを浮かべることも忘れてぼそりとそうつぶやくと、指にかぶりついていた青蛇が、おそらくは傍に紫がいることに気が付いたのでしょう、ぱっと牙を離しました。
そうして鳴き声をあげようとした首を、今度は時貞がぎゅうと掴みました。
きゅい、と青蛇が声を上げました。その声に紫がはじかれたように振り返ります。
時貞の姿を認めて目を瞠り、そうしてその手に握られている青蛇の姿を見て顔色を変えました。
「青坊……! 」
次の瞬間、紫がこねずみのように駆け寄ってきました。
それが時貞にではなく、青蛇のためであることに身の内を黒く渦巻くものが強くなります。
だから時貞はいつもの薄い笑みを浮かべました。
思わず青蛇の首をつかむ力が強くなります。
「あ、あの、時貞様、その青蛇……」
時貞を見上げてくる紫の顔はそれはひどいものでした。泥だらけですし、赤い筋の浮かんだかき傷は手や腕のみならず、その柔らかそうな頬にまでおよんでおりました。
泣いたのか泣き出すのをこらえていたのか、赤い瞳は潤みきっております。声は震え、かぼそい手もやはり震えておりました。
その顔の色は蒼白で、それに時貞はああ、と思いました。
青蛇を掴んだこの状況をみて紫はどう思っているのでしょう。
状況からすれば、時貞がこの蛇を紫の部屋から持ち出し、今まさに殺そうとしていると捉えられてもおかしくありません。
けれどわざわざ真実を告げることは言い訳めいていて馬鹿馬鹿しくも思えました。
これまでの己の行動を顧みても、そんなことを告げても信じてもらえるとは思えませんし、信じてもらえなかった時の己を思うと、端からそんなことしないほうがよい気がしました。
――どのみち悪印象だな、俺は。
冷たいものが胸中に満ちます。
それはひどくさびしいものにも思えました。
そうしてそれを認めるのは、彼の矜持にとっては耐えられないことでした。
――ああ、どうせ同じなら……この子蛇を殺してしまってもいいんじゃねえか。
ふっと湧き出た考えは悪くないように思えました。今、手の力をほんの少しこめれば子蛇の頭などひねりつぶせます。
たしかあともう一匹、赤い蛇がいたようでしたが、それもあとで殺してしまえばよいのです。
そうすれば――この娘には自分しかいなくなるのではないでしょうか。
嫌われたとしても憎まれたとしても、自分しかいないのであれば……。
思いついた昏い考えにぞくぞくと背中が粟立ちます。
そうです。
そうすればきっと、この娘は――。
いつもよりもいっそう冷たい笑みを浮かべた時貞は、そのまま躊躇なく子蛇の頭を握りつぶそうとしました。
しかし次の瞬間。
本当に時貞の指に力がこめられるほんの一瞬前に、紫がこういったのです。
「時貞様がみつけてくださったのですね……」
その声には感謝の色が混じっておりました。
見下ろした紫の潤んだ赤い瞳は、時貞をひたとみつめています。
それをかすかに細めて白い娘はつづけました。
「ありがとうございます……」
それは限りなく笑みに似ておりました。
これまで向けられたことのなかったそれに、なぜだか時貞の思考はひたりと動くことをやめました。
意図せず緩んだ指の先から、ぽろりと青蛇が滑り落ちます。
あっと声を上げた紫が両手を伸ばすと、青蛇はそのてのひらのうえにぽすんと収まりました。
「青坊……よかった、よかった……」
紫の声はふるふると震え、そうして言葉の最後にはついに赤い瞳から涙が零れだしました。
ぽつんと頭の上にその一粒があたった青蛇は、あわてて紫の頬にその頭を寄せます。ずっと紫のふところにいたのでしょう。赤い子蛇も頭をだし、そうしてうれしそうに青蛇の身体にその頭をすり寄せました。
時貞はその光景から目が離せないでおりました。
美しくもなく何かに秀でているわけでもない。
取るに足らない、ただの小汚い娘でありますのに、なのにどうしてこんなにも目が離せないのでしょう。
どうして、こんなにも胸が抉られるような気がするのでしょう。
時貞は視線を無理やりにはがすと、そのまま踵を返しました。
うしろで自分の名を呼ぶ紫の声が聞こえたような気がしましたが、それを振り切るかにように歩を進めます。
この娘は「毒」だ。
そう、思いました。