「一方通行ラプソディ」 |
恋というものはすべてを動かすエネルギーになる。
一方通行ラプソディ
恋というものはすべてのエネルギーになる。 それまで朝が苦手だったのに早く起きてお弁当を作ることが苦ではなくなった。 その人においしいと言って笑ってもらえるだけで心は躍るし、馬鹿みたいに嬉しくなる。 だからよりおいしいものを作ろうと料理教室に通いだしちゃったりする。 料理なんて馬鹿で不細工な女が仕方なくするものだと思っていた過去の自分を、思いきり罵倒してやりたい。 その人が嬉しいと自分も嬉しいから、だから女は男に料理を作るのだ。 そんなことを思いつつ、あたしは隣に座ってお弁当を食べている人を横目で盗み見た。 公園のうららかな昼下がり。木漏れ日がその人の白い髪を不思議な色に染め上げていて、とてもきれいに思えた。 真っ白な髪の毛のその人の名は、黒門誠一さんという。 どこかぼんやりとした印象の、ひたすらおっとりと穏やかなこの人はあたしの片思いの相手でもあった。 「ごちそうさま。とてもおいしかったです。さやかさんは本当にお料理がお上手ですねえ」 ごちそうさまと両手を合わせたあと、誠一さんはそういって微笑んだ。 垂れがちの瞳がさらにゆるんで、なんともいえないほどやさしい表情になるのがあたしは好きだった。 「だけど偶然ですねえ。僕の職場の近くでモデルの撮影があるなんて」 「う、うん……」 今日モデルの撮影があるなんて嘘である。だからあたしは一瞬、返答に詰まってしまった。そうしてもう、なにやってんの、と思う。 以前のあたしならこうではなかった。男の言ってほしい言葉、男の気分のよくなる言葉、そういうのを選び出して即座にセリフにするのは得意だったはずなのに。 それなのにあたしはなぜか、誠一さんにだけはうまいことがいえないのだ。 「あの、まあ、たまたま、です。うん、偶然。偶然ってすごいのよ」 「ええ本当に。僕はさやかさんと会えて嬉しいから、この偶然というものに感謝しないといけません」 「そ、そう? 」 誠一さんはさらりととんでもないことをいう。 いや、言葉にしてみるとしょうもないことなのだけれど、おかしくなっている今のあたしには、それはまるで電撃のようなものなのに。 ばくばくと心臓はうるさいし、顔は勝手に熱くなるし、なんだか手足まで痺れる感じがする。 まったくもって、おかしい。 こんなふうになるなんて初めてで、あたしはだから混乱していた。うまい言葉も、男をおとすテクニックも使えない。 以前の男たちのように自然にすり寄ったり、上目づかいで見上げたり、キスをしたり、まあその、身体を使ったりとか、そういうことが一切できないのだ。 それにたぶん、そんなことをしたらあたしは死んでしまうと思う。 想像するだけで心臓が止まりそうになるのだから、たとえば隣に無造作におかれている誠一さんの手を握るなんてことをしただけで心臓麻痺がおこってしまいそうな気がする。 あたしはそう思いながら誠一さんの手をうらめしげに見やった。 手をつなぐとか、そういうことは幼稚園児でもやっている。それごときができないなんて、あたしはなんて馬鹿なんだろう。 誠一さんの手は細くて大きい。もともと痩せぎすのひとのせいか、指の1本1本が長くてすらりと伸びている。あまり健康状態がよくないらしく肌は青白くて、少しかさついている。 その手に触りたいなあって素直に思うけど、いまのあたしはそんな大それたことは到底できそうになかった。 だいたい、あたしの完全な片思いなのだ。これは。 誠一さんは水筒に入れてきたお茶を嬉しそうにすすっている。 その視線のさきには遊具があって、そこでは小さな子供が楽しそうに遊んでいた。 「誠一さんは子供が好きなの? 」 あたしは横目でみながら問いかけた。最近では真正面から視線を合わすことすらできなくなっているので、これが精いっぱいなのだ。 「ええ。子供はかわいいですよ。なんだかなつかしいなあ」 「なつかしい? 」 誠一さんがおっとり微笑むのが視界のはしで見えた。 「ええ。美幸さんもあれくらいのころがありましたから。とてもかわいらしかったんですよ。いえ、今もですけれど」 美幸、というのは誠一さんの子供の名前だった。なかなか将来有望な顔立ちの子供で、まったく誠一さんに似ていない。 それもそのはず、その子は誠一さんと血のつながりはひとつもない。 誠一さんの元奥さんの連れ子だったそうなのだ。 けれど誠一さんは美幸を本当に大切に育てている。 「さやかさんは子供は好きですか? 」 「ま、まあね」 あたしはそこだけはあわてて頷く。 子供全般がかわいいとは思えないけど、ぶっちゃけ誠一さんとの子供ならすごく欲しい。美幸だって嫌いじゃないし。 片思いのくせに、あたしはそこまで考えてから即答した。 「かわいいもんね、子供。女だもん。欲しいと思うけど」 心の中で誠一さんとの子供がね。と思いながら言うと、誠一さんはさらににっこりした。 「そうですか。うん、さやかさんの子供ならとてもかわいいと思いますねえ。見てみたいなあ」 ああ、また心臓に悪い。 あたしは赤くなった顔を悟られないように俯けた。サイドの髪が頬にかかって自分の表情を隠してくれるように祈りながら。 すると誠一さんは視線を遊具にいる子供に戻し、おっとりとこう続けた。 「子供はとても素敵な存在です。しあわせのかたまりです。僕は本来なら子供ができない身体なのに、それなのに美幸さんという娘ができて、本当に果報者だなあって思うんですよ」 「え……」 あたしはその言葉にどきりとした。思わず顔を上げて誠一さんを見る。誠一さんはきゃあきゃあと声をあげる子供を見て目を細めていた。 「あ、あの、ごめ……」 何かを言おうとしたあたしの声は震えていた。 それは、その言葉がショックだったわけじゃない。子供ができないなんてこと、あたしにとってそれほど重要じゃない。 だけどさきほどのあたしの言葉で、誠一さんが傷ついたんじゃないだろうかということのほうが気がかりだった。 「……さっきのは、嘘。あたし本当は別に、子供なんて生まなくていいわ」 ぐるぐる回る思考の中、あたしはそうつぶやいた。 誠一さんにとっては驚くべき言葉だったのだろう。きょとんと眼を見開いて、そうして急に意見をかえたあたしを不思議そうにみやった。 「そんなのが女の幸せなんかじゃないし」 「……」 あたしは俯いたまま、ただ繰り返した。うまいことを言えない自分がもどかしい。 だって、あたしが欲しいのは誠一さんで、子供じゃない。 けれどその思いを伝えることは誠一さんの負担になることは目に見えてわかっていた。 だって、彼には「好きな人」がいる。 だから言えない。 「……そんなことを言わないでください」 誠一さんの手が視界のすみで動く。 そうしてあたしの頭の上にふわりと乗せられた。そうしてやさしく撫でられる。 「すみません。気を遣わせてしまって」 その声からは不思議そうな色は消えていた。 「さやかさんは優しいから……すみません」 違う。 あたしは不覚にも泣きそうになってしまった。 誠一さんはあたしの感情なんてしらない。だからあたしがただよい子であると思っている。 「僕はさやかさんはとてもよいお母さんになれると思いますよ。だから嘘でも、僕なんかのためにそんなことは言わないでください」 やさしい、優しい声だった。 それこそ、泣きたいくらいに。 あたしは唇をかみしめた。 こんな感情ははじめてで、自分でも自分がよくわからない。 自分以外のひとの笑顔がこんなに恋しいなんてこれまで知らなかった。 恋はすべてのエネルギーになる。 何をするのだって苦にならない。 それはただ、その人の笑顔がみたいからだ。 だからあたしはこのとき、強く思った。 ―ーこの人の笑顔をもっと見るためになら、あたしはなんだってやってやる。 「誠一さん」 あたしは頭の上の痩せぎすの手をとった。ひんやりとした手はかさかさとしていて、やっぱり大きい。 それをぎゅと握ると心臓が痺れるようにうずいた。 ああ、あたしはこのひとが大好きだなあとしみじみ思った。 大丈夫。 それだけでエネルギーが湧いてくる。 「誠一さん。誠一さんの好きな人のこと、前の奥さんのことを、あたしに教えて」 あたしはそのとき決めた。 自己犠牲なんてばかばかしくて嫌い。だからあたしはそんなふうには思わない。 だけどあたしは誠一さんの笑顔がもっと見たい。見ていたい。 だからこれはあたしのため。 誰でもない、あたしのためだ。 -―ーだからあたしが、貴方の恋を叶えてあげる。 「ガラス越しの距離」へ戻る 或るシリーズへ戻る 2011・11・12 |