月は動いている





がしゃん、と派手な音が台所の方から響いてきた。
司は慌てて立ち上がった。広げていた参考書もそのままに、与えられている部屋の扉を開けると目の前は小さなキッチンが広がっている。そうしてそこでは義理の姉であるリコがしゃがみこんで、小さな背中を丸めていた。
「……」
「あ、ご、ごめんね司くん。勉強の邪魔しちゃったね……」
「……どいて」
申し訳なさそうに自分を見上げてくる姐の横にしゃがみこむ。床には見覚えのあるガラス片が散らばっていた。姉の手がそれを危なっかしい手つきで拾おうとするのをみて短く制す。この姉がひどく不器用であることは、これまで一緒に暮らしてきた司が一番よく知っていた。
「つ、司くん、いいよ。自分でするから勉強に……」
「……姉さんがするより俺の方が早い。怪我は? 」
「うん、ないよ」
しゃがみこんだまま答えたリコがそこで笑った。
ふんにゃりといまにも蕩けそうな顔をしていることは見なくてもわかる。
「……ありがとう、司くん」
するりと出された言葉は純粋な感謝の感情に満ちている。

ありがとう。
ごめんね。

姉は鈍臭くて要領の悪い人間だが、素直な言葉を紡ぎ出すのは上手かった。




月は動いている






「何を作ろうとしていたんだ? 」

散らばったガラスを片付け、飛び散った水分や粉末をふき取りながら司は尋ねる。横で手伝いたいがタイミングをつかめずにわたわたしている姉を見る。姉は無意味に雑巾を持ったまま慌てたように答えた。
「レモネードを作ろうと思って……」
「ふうん。じゃあ、ここはいいからそれを作ったら。もう掃除も終わるし」
「あ、う、うん。ごめんね」
リコは申し訳なさそうに眉毛を八の字に下げた。雑巾を置き、立ち上がる。そう拍子にふわりと石鹸の良い匂いがした。風呂上りなのだろう。石鹸と、シャンプーのそれが深夜の台所に香っている。
ほどなく片付けは終わった。割ったのはガラスコップひとつだけだったようで、あまりガラス片が散らばっていなかったのが幸いだった。
もし取り残していたら、この鈍くさい姉が踏む確率はかなり高い。それだけはどうしても避けたかった。
そう思いながら手を洗っていると、横でレモネードを作っていたリコがおもむろにそれを司を差し出してきた。
綺麗なレモンイエローの水滴が蛍光灯に反射してきらきらと光っている。
「はい、司くん」
「……俺に? 」
「うん。お夜食はいらないって言ってたから、せめてこれを買ってきたの。司くん、好きだったでしょう? 」
リコはにこにことそれを掲げ持っている。
きれいだね、といいながら二人で飲んだのは子供の頃だ。母親が作ってくれたそれをベランダに座ってふたりで飲んだ。夏の日差しを通して美しく光るそれをリコは好きで、そうして司はそれを見て嬉しそうにしているリコが好きだった。
「……ああ」
受け取ると姉はいっそう嬉しそうに微笑んだ。
それを見て司は言葉に詰まる。しかし言わなければならないことがあることは分かっていたので、平静を装って口を開いた。
「ありがとう」
「……」
するとリコは驚いたようだった。大きな目を瞠り、そうしてすぐにはにかんだようにパジャマの裾をいじる。
「司くん、最近変わったね」
「……そう」
「うん」
何故だかリコは嬉しそうだった。他人のことを自分のことのように喜ぶのはリコの常である。
司はそれを見てそっと息を吐いた。
そういうものに憧れる。そんなこと口に出したことなどなかったが、最近の司は常にそう思っていた。
司はレモネードを手にしているがリコは持っていない。そういえば先ほど割れていたのもコップがひとつだけだった。つまりリコは司のためだけにレモネードを作っていたのだ。それに今更ながらに気づいて胸があたたかく痛んだ。

こういう人に、憧れる。

「姉さん」
「うん? 」


司の脳裏にちらりとひとりの影がうつった。通っている高校でも自分は、そういう人物を知っている。
そうして、その人物をひどく傷つけたことも。

「俺、これまで人を傷つけるようなことしてきたんだ」
「え」
「それで他の奴までまきぞえにしてしまった」
姉は驚いたようだった。考えてみればこのような話をするのも初めてだった。
姉がどんなに心配しても、これまでの司は自分の弱さをさらけ出すのは嫌だった。それがちっぽけな虚栄心であったことが今ではわかる。
司はレモンイエローの光に目を落とす。そうして続けた。
「……姉さんなら、どうする? 」

姉はしばらく黙っていた。司もだから黙ってコップを眺めていた。
ああ、困っているのだろうな。そう思うと少しばかり心臓が痛んだ。嫌われたり、疎まれたりはしたくはない。

もういい、ごめん。
そう言おうとした司の腕をふいにリコが掴んだ。そうしてそのまま司の目の前に回りこむ。
広くはないキッチンで接近されて、さすがに落ち着かない気分になる司の目をリコは真剣な瞳で覗き込んだ。

「つ、司くん、あのね、わたしは司くんの思うようにすればいいと思う! 」
「……え」
「司くんがね、そういうふうに言うなら答えはもう出ているんだと思うの。き、傷つけたからどうしたいか、まきぞえにしたからどうしたいか、それはわたしに言った時点で、答えは出ているんだよ、たぶん」
「……」
「わたしは司くんがとてもやさしい人だってこと知ってるよ。だから大丈夫。だから……」
「……うん」

司は頷いた。目を閉じ、顔を俯けるとリコの額に自分の前髪が落ちかかる。
このままやわらかで愛しい身体に触れたい衝動にかられたが、それはなんとか制した。
約束は守らなければならないのだ。
この人に、少しでも近づく為に。

「わかった。……ありがとう、姉さん」


その言葉に、息がかかるほどの距離でリコが蕩けるような笑顔を浮かべる。

何故だかそれが、夏の空気越しにぼんやりとゆらいで見えた。








月は動いている









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2011.6.26