「無色の夢」 |
たかみやなしこ。10歳。 風邪をひいてしまいました。
無色の夢
「38度。…どうりで顔が赤いと思ったわ」 「…ごめんなさい。おばさん」 わたしは慌てて犬丸のおばさんに謝りました。 お父さんにこの家に連れてこられて6週間目。 この家にお世話になって6週間目。 この犬丸家のみなさんには只でさえご迷惑をかけているというのに、風邪をひいてしまうなんて本当に…情けないです。 「リコちゃんが謝る事なんてないわ。でも…困ったわねえ…」 おばさんは綺麗な顔をわずかに曇らせました。 そうしてわたしのお布団をぽんぽんと叩きます。 「司、出てきなさい。今日はお姉ちゃんとは一緒に寝れないのよ?」 「…いやだ」 わたしの横からひょっこり顔を出した男の子がふるふると首を振りました。 「今日もおねえちゃんといっしょにねる」 この子は犬丸司くん。この家の息子さんです。 年はわたしより5つ下の5歳で幼稚園の年長さん。 とても小さくて可愛い男の子なのです。 「だって約束もしたんだ。今日、ピーマン食べれたらいっしょにねてもいいって」 そうだよね、と可愛い顔で言われてわたしは困ってしまいました。 約束したのは確かだからです。 「う、うん…でも…」 「司。駄目でしょう?」 犬丸のおばさんがいつものように優しく言いました。 「お姉ちゃんは風邪なのよ。お熱もあって苦しいの。ゆっくり休ませてあげないと風邪が治らないのよ」 「そ、そうだよ司くん…。それに、風邪がうつっちゃうよ…」 わたしはわたしにぎゅうとしがみついている司くんに言いました。 正直、司くんは可愛いです。すっごく可愛いです。 それに兄弟が欲しかったわたしにとってははじめて出来た弟でもあります。 だけども心を鬼にしなければならないときもあるのです。 けれども司くんは言いました。 ふっくらとしたほっぺたがぷうと膨らんでます、 「…いやだもん」 「司!」 その時ふいに男の人の声が響いて、司くんの身体がお布団から空に浮きました。 「我侭を言うんじゃない」 「わがままじゃないもん!」 司くんは空中でじたばたしました。 そうしてわあんと泣き出してしまいました。 その身体を持ち上げているのは格好良い男の人でした。 犬丸のおじさん。司くんのお父さんです。 おじさんはわたしを見て言います。 「ごめんなリコちゃん。司には良く言い聞かせておくから、ゆっくり休むんだよ」 「は、はい…」 わたしはこっくりと頷きました。けれどもわんわんと泣きじゃくっている司くんのことが気になりました。 普段の司くんは聞き分けのいい良い子です。 小さな我侭はもちろんあるけれど、こんなに泣いたり自分の意見を通したりすることはほとんどありません。 どうしたのかな。何かあったのかな。わたしは思いました。 だけども考えようとすると余計に頭がぼんやりしてきました。 これが熱というものなのかなあ。 目の前もぐるぐるします。 「あら、リコちゃんが大変!」 犬丸のおばさんの声がぼんやりと聞こえました。 おじさんの声も。 司くんの泣き声も。 ぼんやり。ぼんやり…。 ふうっと目が覚めたときには辺りは真っ暗になっていました。 ぱちぱちとまばたきしていると、ふいに喉が苦しくなってこほこほとせきが出てきました。 喉がからからに渇いています。 …お水。お水を飲みに行こう…。 そう思って起き上がろうとしたわたしでしたが、しかし身体が鉛のように重いことに気づきました。 ずっしりと重いものがわたしの上に乗っているかのような感覚に、わたしの背筋が冷えました。 昨日見た怖いテレビの内容が蘇ります。 そのテレビの中では男の人が「かなしばり」というものにあっていました。 かなしばりとは幽霊が起こすのだそうです。 身体が全然動かなくなって、そうして瞳をあけた男の人は自分の上に何かが乗っていることに気がつくのです。 その乗っているのは黒い髪を振り乱した若い女の人の幽霊で…。 「……!」 わたしは慌ててぎゅっと瞳を瞑りました。 怖いのは苦手です。 これでは起き上がれません。 (ううう…怖いよ…どうしよう、どうしよう…) わたしはこっそり涙ぐみました。 実は昨日だってテレビを見ながらびくびくしていました。 隣にくっついていた5歳の司くんの方が平然としていたくらいです。 「お姉ちゃん怖いの?」 「う、うう…うん」 迷った末、わたしは正直に頷きました。 わたしは司くんより5歳も年上です。なんだか恥ずかしい気もしましたが仕方ありません。 だから照れ隠しに慌てて尋ねました。 「つ、司くんは怖くないの?」 「うん」 「そう…。司くんは凄いねえ。男の子だねえ」 そう言うと司くんは嬉しそうにえへへと笑いました。 その笑顔の可愛らしさを思い出しながら気を紛らわそうとしましたが、身体はやっぱり動きません。 絶対何かが乗ってます。しかもなんだか動いているみたいです。 (あうう…おばけ…おばけだ…) わたしの心臓がぎゅうと縮み上がりました。 テレビで見たような黒髪の女の人がずるずると手を伸ばしてきそうな気がします。 (怖い…怖いよう…お父さん…) そのときパッと視界が明るくなりました。 天井の蛍光灯が付けられたのです。 「ああ、こんなところに居た」 「まったくこの子は頑固だなあ。君にそっくりだ」 「あら。あなたにそっくりなのよ。あ…ごめんなさいねリコちゃん。起こしちゃったわね」 そこに居たのは犬丸のおじさんとおばさんでした。 おばさんは手に洗面器をもっています。 おじさんは手ぶらでしたが、わたしの上に屈みこむとわたしのお布団の上からひょいと何かをどかしました。 途端に身体が軽くなります。 「ごめんなリコちゃん。重かったろう?」 犬丸のおじさんがわたしに言いました。 わたしは突然明るくなった視界に戸惑っていましたが、目を凝らすと犬丸のおじさんが抱えている人が見えてきました。 それは幽霊でもおばけでもありませんでした。 見慣れた、小さな身体。 「…司くん…」 司くんはぐっすりと眠り込んでいます。けれどその可愛らしい顔には泣いたような跡がたくさん残っていました。 「寝るときはオレと一緒に寝ていたんだけどね。いつのまにかリコちゃんのとこに来ていたみたいだ」 「ごめんなさいねリコちゃん。大丈夫?」 おばさんはそう言ってわたしの額にひんやりとしたものを乗せてくれました。 そうして苦笑気味に言いました。 「もう、司ったらしょうがないわね。何度言い聞かせてもお姉ちゃんと一緒に寝るっていってきかなくて」 「いいえ、そんな…」 「お姉ちゃんが怖がるから、一緒に居てあげるんだって。どういう意味かしら」 「……!」 わたしはその言葉にどきりとしました。 お姉ちゃんが怖がるから。 …そうだ。わたしは昨日…。 「そう…。司くんは凄いねえ。男の子だねえ」 昨日の夜。 まだびくびくしているわたしがそう言うと、司くんはえへへと笑いました。 そうしてわたしにこう言ったのです。 「お姉ちゃんが怖いなら、これからはずっとぼくが一緒に寝てあげてもいいよ!」 「…本当?」 わたしは嬉しくなりました。おばけが怖いからではありません。 この司くんという男の子はとても優しい弟なのです。 「うん!ずっと。ずーっとだよ!」 「…うん。ありがとね、司くん」 わたしは嬉しくて、嬉しさで胸が一杯になって泣きそうになってしまいました。 だから小さな司くんをぎゅうと抱きしめました。 「ありがとね…」 ・・・・・・・・・・・・ 「司くん…」 わたしはつぶやきながら瞳を開けました。 蛍光灯の光でしょうか。暗闇に慣れた瞳にはそれはひどくまぶしく映りました。 頭はまだぼんやりとしています。 けれども夢から完全に覚めきらないとき特有の、優しいまどろみがふんわりと身体を包んでいました。 凄く懐かしい、優しい夢でした。 それは10年くらい昔の、子供の頃の思い出でした。 「何?」 ふいに傍らから低い声が響いてきて、わたしは心の底から驚きました。 声のした方を向けば、すらりとしたひとりの男の子の姿が目に入ります。 わたしはさらに驚きました。だって、朝には学校にきちんと送り出したはずです。 「つ、司くん…学校は?」 「早退してきた」 男の子―司くんはぶっきらぼうに答えました。 司くんは中学3年生です。現在は受験真っ只中。 とても大切な時でもあります。 こんな大事な時期に早退させてしまったなんて。わたしは蒼ざめました。 「そ、そんな…そんなことしなくてもわたしは大丈夫だったのに…」 慌てて寝ていた布団から起き上がると、自分の額からぽとりとなにかが落ちました。 手にしてみるとそれはひんやりとしていました。 熱を下げる為のそれが、たった今換えられたばかりであることが見てとれます。 「…司くん、付きっきりで看病していてくれたんだね…」 なんだか泣きそうになりました。 「仕方ないだろ。姉さん、風邪なんだから」 「ご、ごめんね…」 「…謝るくらいなら気をつけろよ」 司くんは淡々とそう言うと、わたしから目を逸らして手にした参考書に視線をうつしました。 わたしは滲む瞳を手の甲に押し付けて、そうしてあたりを見わたしました。 わたしの寝ている布団の横にはちゃぶ台があります。 そこには参考書や教科書が積み上げられています。 そして病気の本に体温計。洗面器やら薬の袋が乱雑に散らばっていました。 「……」 わたしはまた司くんに迷惑をかけてしまったようです。 もう20歳になるというのに、本当に情けないことです。 そう思いながらも、心のどこかがほっこりと暖かくなってくるのをわたしは感じていました。 最近ではめっきり無愛想で口数も少なくなってしまった司くん。 口調も冷たいし、態度はよそよそしいし、昔みたいに甘えてくれることもなくなってしまったけれど。 それでもやっぱり、今でもすごく優しい人なのです。 わたしの…たったひとりの「家族」。 「司くん」 「何?」 司くんは無愛想に、それでもきちんと律儀に瞳をあげてくれました。 わたしはだから微笑みました。 心の底からの感謝をこめて。 「ありがとう」 ……大好きだよ。
無色の夢
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