「或る若社長の花嫁」続編

或る交わらない言の葉






感じたことのなかった感情は、今でも消えることなく蠢いている。







或る交わらない言の葉








…そうか。
私の姿が見えなくなったのか。

「…え」

椿は、目前の少年の表情を見て悟った。
少年は瞳を見開き、ただ呆然と自分の腕の中をみつめている。
「…椿さん…?」
「………なんじゃ」
椿は答えた。きちんと声を出して。
しかし少年の耳にその声は聞こえていないようだった。
何度も何度も、呆けたように繰り返す。
「椿さん…椿さん」
「……」
「嘘でしょう。…出てきてください、椿さん」
「………」
「……椿…さ…」

少年は立ち上がった。みるみるうちに顔が色を失っていく。
その顔を見上げたまま、椿はその場に座り込んでいた。
つい先ほどまでは少年のあたたかさに包まれていた。
しかしその温度は少年が腕を解いた瞬間にすうっと溶けていく。
まるで幻だ。そう、思った。

立ち上がった少年は、椿の名を叫びながら家の中を駆け回り始めた。
それをぼんやりと眺めながら思う。
ああ、そうか。
ついにそのときが来たのだ。

この少年が座敷童子である自分のことが「視えていた」期間は、今までの子供のことを考えると長かった。
小さな頃は椿のことが見えていても、成長に従って見えなくなる。
それは概ね6〜8歳の間が定石だった。
だから今回の長さは僥倖といっても良かった。


今の子供に、椿の姿を見ることの出来るものはほとんどいない。
何故なのか。
その理由は、当の椿自身でさえも明確に持ち合わせてはいない。
しかしその事実だけは真実だった。
現に少年の父親と祖父は自分の姿は見えなかった。
見えていたのは先々代。
もう、90年も前の話になる。


桜井家には代々、この家に憑く座敷童子を大切にせよという掟がある。
恐るべき幸運に守られてこの家は栄えてきた。
その存在は桜井家の長い歴史の中では確固たるもので、それ故に代々の主はその掟を固く守っている。
だから椿は不自由なことなど一度もなかった。
住む奥座敷はいつも手入れが行き届いていたし、毎日の供えもきちんと運ばれてくる。
だけれど、誰にも椿の姿は見えなかった。
だから90年もの間、椿はこの家でただの一人きりだった。


だから、この少年が現れたときは嬉しかった。


少年は生意気でこましゃくれていた子供だった。
しかし…寂しさにいつも蝕まれているような子供だった。

いつも愛情に飢えていた。
親はあるのに親を知らない。そんな境遇の子供だった。
だから時には母親の真似事をしてやった。
父親の真似事をして叱ってやったこともあるし、兄のように慰めてやったこともあった。
だから少年が自分に懐くのは早かった。


しまったと思ったときには遅かった。
自分との別れは必ず来る。
あまり情をうつしても、うつされても後が辛い。
それは痛いほどわかっていた。
わかっているはずだった。

…それなのに。



椿は少年の姿を見る。
少年の姿は痛々しいものだった。
見えないものを必死に探し回っている、その姿。
もう彼の世界には「椿」の存在はどこにもない。


…可哀想に。

思い浮かんだのはそんな言葉だった。


可哀想に。

お前は私に、情をうつしすぎたのだ。



尋常でない少年の声を聞きつけたのだろう。
屋敷の使用人のひとりが部屋に飛び込んでくる。
そうして現在のこの屋敷の主人である少年の祖父の姿も。
しかし少年は彼らには目もくれずに、ひとつの名前を叫び続けている。
その姿はもはや狂乱と言っても相違ないものだった。


可哀想に。
椿はぼんやりと少年を見る。

「…正美」

それはあまりにも哀れな姿だった。
だから聞こえないと分かっていても、声をかけずにはいられなかった。

「有難う。短い間だったが、私はとても楽しかったぞ」

だから。


「…私のことは忘れるんじゃ」



いくら寂しくても、人間には忘却というものがある。
愛するものと死に別れても、どんなに辛いことがあっても、それがあるから人間は生きていける。
だから自分のことを忘れればいい。
そうでなければこの少年は救われない。

―だから、忘れろ。

しかしそう告げた時、ふいにチリと胸が痛んだ。
細い針で刺されたような小さなそれ。
気のせいと片付けられそうなほどか細い其れは、しかし確かに椿の感情の中にあるものだった。




「貴女を愛してます」

ほんの先ほど、少年は椿の小さな身体を抱きしめてこういった。
椿は座敷童子だ。
永遠のこども。
いくら長年生きていても、その経験からくる知識があっても、所詮は童子でしかない。
だからそんなこと言われたこともなかった。
その言葉の意味もぴんとこなかった。

ただ…その言葉と声音のせいだろうか。
今まで感じたこともない、不可思議な感情が胸の奥からすうっと湧き上がってきた。
どこかに眠っていたそれを叩き起こされた。そんな感触だった。

…しかし。


椿は少年を見る。
しかし少年の瞳はあらぬほうを向いていて、椿のそれとは交わらなかった。


くつ、と椿は笑みを零した。
それは当たり前のことだ。人は必ず大人になる。
そうでなければならない。


この家が、この血筋の人間が末永く幸せに暮らすこと。
それが自分の望みだった。
だからこそこの存在になれた。
あやういところで、自分はこの姿になれた。
兄を殺さずに、生かすことを選べた。
そうしてその血筋を守ると。そう決めた。


兄の血筋。その末裔の子供。
この子供もいずれ自分のことを忘れるだろう。
それが当たり前のこと。
少年は大人になる。
妻を娶り、子を成す。
そうしてこの血筋は続いていく。

そうだ。私は。
この一族を守れれば…それで良い。




屋敷の中では、未だ自分の名を呼ぶ少年の声が響いている。
椿は瞳を閉じる。

そうして祈った。

忘却という名の癒しが、一刻でも早く彼の元に訪れることを。
その痛みが、一刻でも早く癒されることを。



…自分の痛みには、気づかない振りをして。






2009・8・28










或る交わらない言の葉








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