「或る若社長の花嫁」続編

或るさよならの言葉





「椿さん」

その12歳の少年はつぶやいた。
その顔は蒼白で、唇は小刻みに震えている。
「椿、さん…」
つぶやきながら襖を開ける。
がらんとした和室に人の気配はない。
ほんの数日前までは確かにあった、あたたかな空気がどこにもなかった。
声が、震えた。
「…居ますよね…居るんでしょう?」
人の住んでいる部屋は生きている。
風が動き、その空気をも変えるものだからだ。
しかしこの部屋はどこまでも空虚で乾いていた。
誰も居ない。
だからこそ返事はこない。
「椿さん」
けれども少年はその名を呼び続けた。呼びながら、家の中を探し回る。
押入れ。天窓。机の下。縁の下。
思いつく全てのところを探し回ったが、やはりその姿はない。
少年はとぼとぼと彼女の部屋である奥座敷に戻る。
「……」
目の前には彼女がいつも座っていた座布団が置かれてある。
夕暮れの中、ぽつねんと置かれたそれにもやはりその気配はなかった。

少年は黙り込む。
その座布団をみつめたまま、そうしてその場にへたりと腰を落とした。

彼女の姿が彼の視界から消えて3日。
唐突に、前触れもなく。
彼女は腕の中から姿を消した。

「……っ!」

再度名を呼ぼうとして、しかし洩れたのは嗚咽だった。
古ぼけた畳の上に水滴が落ちる。
少年はとめどなく溢れるそれを抑えることが出来なかった。
ただ、涙を零し続ける。
畳に額をつけ、身体を丸めるようにしながら少年は泣いた。


「…僕のせい、なのですね」

やがて少年はつぶやいた。
しゃくりあげながら繰り返す。

「僕の…」


彼女は言ったのに。


まっすぐでいればいい。
そうすれば私はずっとお前と共にあろう。


言ったのに。

なのに…自分は。










或るさよならの言葉











「ずっとですか?」
「ああ」
少年の問いに彼女は頷いた。
その拍子に髪に飾っている椿の花がゆるりと揺れる。
肩で切りそろえられた髪は艶やかに黒い。その漆黒に赤い花弁はくっきりと映えていた。


彼女には名前がなかった。もう忘れたとあっさりと言う。
だから名をつけてもいいかと尋ねた。
許可を得て、三日三晩、それこそ寝ずに考えた。
そうして4日目。自分は名前とともに一輪の花を手渡した。
彼女の唇のように赤い、美しい椿の花。
「ほう。5歳の童子のくせになかなか憎いことをするもんじゃな」
どこか時代がかった言葉遣いはその愛らしい外見と声には合わない。
それでも少年は、愛らしく笑う幼女の姿から目が離せなかった。


あれから7年。
あの頃と寸分姿のたがわぬ幼女は彼の問いに淡々と答える。
「まっすぐでさえあればいい。大人になっても、私という存在があることをそのまま受け入れてくれていたら良い」
「そのまま、受け入れる…?」
少年が鸚鵡返しに繰り返すと、幼女はくつくつと笑い声を洩らした。
そうして側に置いてある入れ物からおはじきを掴む。
小さな手のひらから零れたそれは夕陽をはじき、硝子の紋様を壁にうつしだした。
「私が座敷童子だということじゃ」
「……」
「…まあ安心せい。たとえ私の姿が見えぬようになっても私はお前を守る。お前と、お前の血筋のものを守る」
「……」
少年の沈黙を見て、幼女は安心させるかのように微笑んだ。
硝子の紋様に彩られたこの部屋は幻想的に美しい。
だからだろう。幼女は上機嫌にこう続けた。
「だから安心して大人になれ。そうして良い嫁をもらい、良い子をなせ。私はお前達の家族を全力で守ろうぞ」
その言葉に少年がはじかれたように顔を上げた。
そうして呆然とした表情で幼女を見つめる。
「どうした?」
「………僕は、椿さんが好きです」
それは少年が小さな頃から繰り返し言っていた言葉だった。
幼女はあっさりと頷く。
「ああ。私もおぬしのことが好きじゃぞ」
「違います。そういう意味じゃない」
少年の顔が歪む。
悔しさや悲しさ。それらの感情を混ぜ合わせたような表情で12歳の少年は首を振る。
「…どうした正美。なにが不満か」
「……」


幼女が不思議そうに首を傾ける。
だからこそそれは本心だった。少年にもそれはわかっていた。
だけど。
「僕は嫁なんていりません」
少年の言葉に目の前の幼女は驚いたようだった。
黒目がちの大きな瞳を瞠り、ぽかんと口を開けている。
「…なんじゃと」
「好きでもない相手と結婚して、父と母のような夫婦になるくらいならそんなものいりません」
それは考えながらの言葉だった。
この言葉を選べば目の前の女性は…優しい女性はこう返す。
それを少年は知っていた。
幼女が口を開く。

「世の中はそのような夫婦ばかりではない。もっと大人になればお前にも出来る。
心の底から愛する者じゃ。大丈夫。必ず出来る。だからその者を、お前の嫁にすればよい」

予想通りの優しい言葉。
だから少年は笑った。
「…なら、貴女が僕の嫁になってください」
「……え」
「先ほどの答えです。僕の感情は貴女のものは違う。そういうことです」

幼女の手からばらばらとおはじきが零れる。
それは畳の上を滑り、艶やかな華のようにばらまかれた。

その理由を少年は知っていた。
それは自分が彼女の手をひいたからだ。
手前に引き、そうして彼女のちいさな身体を抱きしめた。
その瞬間、やはりそうだと少年は思った。
この感情は真実のものだ。他の誰に抱くものとも違う。

彼女にしか覚えない。
彼女にしか感じない。
彼女でないと…駄目なのだ。


出会った時からそうだった。わかっていた。
今の自分はそれを、認識したにすぎないのだ。


「…椿さん」

だからこそ彼は抱き込んだ幼女の、そのちいさな耳元で囁いた。
幼女が何かを言おうとする気配が伝わってくる。
しかしそれを遮り、彼はただ微笑んだ。
それは彼の中でまぎれもなく…真実なのだから。


「僕は貴女を…愛しています」




その瞬間―。

彼女は忽然と、腕の中から消え失せた。


その身体も。
声も。
存在も。
温度までも。


すべて。


――まるですべてが、幻であったかのように。









誰も居ない部屋で彼は泣く。
自分が欲した存在が側に居ることを知りもせずに彼は泣く。


椿は涙を零し続ける少年の頭をそっと撫でた。
しかしもう、彼に彼女の姿は見えない。
見えることはない。


彼は欲した。
彼は理解した。

そうして彼は…「大人になること」を選んだのだから。




誰も居ない部屋で彼は泣く。
少年は、自分が選んだものに後悔はない。
しかしその結末は12歳の少年にはあまりにも酷すぎた。


「椿さん…」

名を呼ぶ声と共に、庭に咲く赤い花がぽとりと落ちた。
少年の虚ろな瞳がそれをうつしだす。


それはこの部屋に居た存在が、間違いなく消えた証のようにも思えた。




2009・8・19










或るさよならの言葉








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