「或る若社長の花嫁」続編

「或る少女の恋愛事情」





その出会いは偶然だった。
その人は目の前に広がる凄惨な事故現場の中で、たったひとり平然と立っていた。
状況はわからないが、3台の車はあちこちがひしゃげて転がっている。
救急車はすでに到着してはいるが、奇跡的に重傷者はいないようだった。



黒門美幸は、その男が颯爽と立ち去るのを最後まで眺めていた。
鼓動が五月蝿い。耳の奥がわんわんとするくらい彼女は興奮していた。
だって、これは、たぶん。


「みつけた…」

美幸は胸の前で両手を組み合わせて瞳を潤ませる。
そうしてうっとりとした声でささやくようにつぶやいた。


「あたしの、運命の人だわ!」








或る少女の恋愛事情











引き戸を開けた優次はきょとんと瞬いた。
時間は午後の5時を回り始めていたが、夏の日差しはまだまだ強い。
太陽は高く、地面で生活する者たちを容赦なく照り付けている。
日陰はわずか申し訳程度にしか存在せず、アスファルトはまるで熱せられたフライパンのよう。
そこに一人の少女が立っていた。
なにやら変わった風体をしている。
この晴れ渡った太陽の下、黒いこうもり傘をさしているのだ。
日傘ではない。男性用の、大きな大きな黒い雨傘。
それをさしたまま、少女は睨みつけるように前を…優次がたった今までお邪魔していた家を凝視していたようだった。
だから当たり前のようにその瞳は優次を捉える。
形の良い瞳が優次のそれと合う。
おうしてその瞬間、少女は指をびしりと突きつけてきた。
「ちょっとそこの子供!」
「う、え、は…はいっ」
いきなり怒鳴られ、優次は思わず首をすくめた。
少女は傘をさしたまま近づいてくると、家と優次を交互に見比べた。
「あんた、このうちの子?まさか桜井さまの子供だなんていうんじゃないでしょうねえ!」
「い、いえ違います…え、桜井さま…さま?」
「じゃあなんなの?このうちに何か用なの?」
「え、ええと…」
優次はあまりの少女の剣幕にじりじりと後ずさる。
そうして考えた。
自分が桜井の何なのか。
誓い表現で言えば、其れは多分…。
「ええと、ええと、協力者というか…」
「協力者?あんたみたいな子供が桜井さまの何を協力するっていうのよ」
「ええ、ええと…」
少女はずいずいと迫ってくる。
優次の背が、玄関の戸にぶつかった。
玄関の戸と少女の気迫と。
それに挟まれた優次はあわてて声をあげた。
「さ、桜井さんの恋路です…っっ!」




「あたしはね、桜井さまに一目ぼれをしたの」
優次は謎の少女の隣を歩きながら呆然としていた。
周囲は先ほどから賑やかな音で溢れている。
ひゅんひゅん。ぱりん。
びゅん。どかっ。くるくる。ざすっ。
「凄く素敵だったわ…。あたしはあんなに力に溢れている人を見たことがない」
ずがががが。がすっ。
ばっしゃん。ばたばた。
「あの人ならあたしの運命を変えてくれるかもしれない。ううん、きっとそうに違いがないのよ。
あんなに力に溢れていて、くわえて顔も上の上。26歳ってのが少し年上すぎるかなって気はするけど、まあ11歳の年の差結婚ってのも悪くはないわ。
…ああ、あんまり離れると危ないわ。もっとくっついて」
その声と共にトラックのタイヤが小石を弾き飛ばし、弾丸のように優次めがけて飛んでくる。少女は恋する少女特有のうっとりとした瞳のまま、あっさりと傘をひとふりした。
「うわ…」
見事傘に跳ね飛ばされた小石は綺麗な軌跡を描いて小川に吸い込まれる。
優次は思わず声をあげるがやはり少女は動じない。
頬を可愛らしく赤らめたまま、空いた片手のひとさし指で空中にくるくると「の」の字を描いている。
「素敵よねえ。あの桜井グループの社長にしてあの顔。くわえて独身。女の影もないときた。そしてなによりあの幸運!」
頭上に落ちてきた植木鉢を広げた傘を利用して弾き飛ばした少女はきらきらと輝く瞳を優次に向けた。
「幸運ってのは最高のもちものよ。努力しても手に入れることの出来ない天性の才能といってもいいわ。
そして最高の力を持つ。金も権力もその前には無力でしかない」
「幸運…」
「そうよ」
優次はその言葉を反芻した。そうして慌てて付け加える。
「あ、あのう、でも桜井さんには好きな人が…」
「そうだったわね。だからこそあたしはあんたと話しているんだったわ」
老婆が撒いてきた呼び水を、これまた傘で防いだ少女はこくりと頷く。
優次は涙の滲む瞳で少女を見上げた。
少女はあくまで淡々としているが、桜井の家からの帰宅途中、これまでに優次は「13回は大怪我をしかけた」。
いや、少女は、と言った方がよいのかもしれない。
細々とした不運を入れれば数え切れない。それを全部少女は慣れたようすで防ぎ、避け、さばいていた。
そのようすに優次は彼女が「この世のものではない」のではないかと思ったが、何度見てもその気配は感じられない。
黄色の制服は隣町の中学のものであるという。
丁寧に梳いているらしい長い髪を左右の頭上でくくっているその姿は、ただの女子中学生にしか見えなかった。
ただ、時折ではあるがその周囲にはなにかの光が見えるような気がしていた。
それはあまりに清浄で心地よい光りで、だからこそ少女に「いたずらをする霊」が憑いていないのも明白だった。
まじまじと少女を見上げていると、少女も優次を見下ろし、そうしてその表情をひきしめた。
「ねえ、桜井さまのその好きな人ってどんな人なの?」
周囲ではあいかわらずけたたましい音が響いている。
少女が器用に傘を振り回しながら、自分と優次を守る音。
そのあまりにも不可思議な音は現実には似つかわしくはなかったが、それでも「現実」に違いがなかった。
少女はおかしいところがあるような気がするけど間違いなく人間だ。
そして、多分…。
そこまで考えて優次は頷いた。そうして口を開く。
「綺麗な方です。頭が良くて、綺麗で、優しくて、怒ると怖い。そして一緒に遊ぶ時はとても可愛いです」
「遊ぶ?」
「はい。一緒に遊ぶととても喜んでくれます。彼女のきほんは子供だから」
「…なによそれ。その女は子供なの?桜井さまはロリコンってこと?」
「ううん…少し違います。きほんは子供でも中身は違う。本当のところは違う、から」
優次は言葉を選びながら慎重に答えた。
少女は怪訝そうな顔をしている。
優次はさらに続けた。
「桜井さんは本当にその人のことが好きなんです。すべてを捨ててもいいとさえ思っている気がします。
だ、だからその…お姉さんの言う「幸運」だって、あっさり手放してしまうんじゃないかと思うんです。たぶん…」
少女の動きが止まった。
ぎょっとしたように優次を見る。
「どういうこと?」
「お姉さんが桜井さんのことを本当に好きなら、それはかまいません。それはお姉さんの自由だと思うから。
だけど、お姉さんがもし、「幸運」で桜井さんのことを求めているのなら、それはたぶん違うと思うから…」
少女はぽかんとしている。
優次はあせった。言いたいことが伝わらなかったのだろうか。
言葉は本当に難しい。
「あ、あのう…」


「優次!」
突如かけられた声に、優次は身体を強張らせた。
そうしてはじかれたように振り向く。
そうしてそこに立つ人物を認めて、弱々しい声を出した。
「お…お母さん…」
「何をしてるの。知らない人についていっては駄目だって言っているでしょう」
買い物帰りなのだろうか。
高級デパートの袋をいくつも腕に下げた母親は、つかつかと近づいてくると優次の腕をぎりりと掴んだ。
「帰るわよ」
「あ、う、うん…」
「あの!」
少女の声に母親がそちらを向く。
その瞳には傍から見ても分かるほどの敵意が見て取れて、少女が一瞬だけひるんだように見えた。
しかしすぐにその瞳に勝気なものを蘇らせる。
そうして高級な服に身を纏ったまま自分の子供の腕を掴む女性に向けて続けた。
「あたし、黒門美幸っていいます。西麻宮中学の3年生です。お子さんに聞きたいことがあって、一緒に帰っていただけなんです。けっして怪しいものでは…」
「……あなた、そのぼろぼろの黒い傘はなんなの?なにかのまじない…?」
「え。い、いえ、これは…」
少女が答えるより先に女性は吐き捨てるかのようにつぶやいた。
「気持ち悪い」
「…え?」
「うちの子に構わないで頂戴。優次は病気なの。だけど最近は治ってきているのよ。だからこれ以上優次をおかしくさせないで」
その声は抑えられているが、充分に敵意を感じさせるものだった。
その声を聞くだけで優次はすくみ上がる。条件反射のようなものだった。
ぐいと腕を引っ張られて優次は歩き出す。
首だけを捻って少女の方を見ると、美幸と名乗った少女は呆然と去っていく自分たちを見ていた。
嫌な思いをさせてごめんなさい。
優次は心の中で謝る。
そうして家に着いた後に打ち付けられるであろう母親の言葉に、心の底から怯えるのだった。









家に帰りついた美幸を出迎えたのは、ひとりの若い男だった。

おどおどした態度はいつものもの。
そのくせ嬉しそうなのもいつものもの。

「おかえり、ユキさん。遅かったですね…」
「ただいま」
「あ、あの、お怪我は…?嫌なことはありませんでしたか…?」
「怪我はないわ。けど嫌なことはたーっぷりあったわよ。これもあんたのせいかしら。まったく、本当に厄介者よね」
「ご、ごめんなさい…」
男はしおしおと肩をすくめる。
しかし黒い服に包まれた男の身体はひょろりと長く、その身を縮めるのは至らなかった。
美幸は傘を折りたたむ。
男はその様子をおどおどと見ていたが、やがてぽつりとつぶやいた。
「…傘。今日はあまり壊れていませんね…」
「今日はめずらしく幸運だったの。桜井さまの知り合いの子供に会ったからかもね」


桜井さま、とは美幸が1週間前に出会った「運命の人」のことである。
男はその日からそのことをさんざん聞かされていたし、その「運命の人」にかける美幸の想いも知っていた。

…絶対に彼と結婚するの。その努力は惜しまないわ。頑張るわ。そしてお父さんを幸せにするの。
あんたの手なんか借りなくてもいいようにね…!

だからこそ不思議だった。
ようやく桜井さまとの接点になるかもしれない人物と出会えたのなら、どうして機嫌が悪いのだろう。
「ねえ、根倉」
美幸は玄関先に座り込んで、ブーツの紐をほどきながらつぶやいた。
男から見えるのは少女の背中だけ。
しかしその背中がいつもと違うかのように感じた。
「は、はい…」
「母親って……あんなものなのかしら」
「は、はあ…?」
根倉と呼ばれた男は思わず間抜けな声を出す。
すると少女はくるりと振り向き、ふんと鼻を鳴らした。
「間抜け面。ああ、なんだか苛々するわ。こういうときは美味しいものでも食べて元気を出すに限るわね」
「あ、それなら冷蔵庫に納豆が…」
「卵もつけるわ。お父さんにはネギもつけてあげようっと」
美幸はブーツを放り投げるとすたすたと家の中に入っていく。
根倉はその後姿を見ながら、更に肩を落とした。
美幸は可愛らしい少女だ。
その容姿は美少女といっても、おそらくは差し支えないだろう。
そんな少女がこんなボロボロの家に、みずぼらしい自分が居るこの家に帰ってこなければならない現実が胸に痛かった。
「…すみません…」
何万回もつぶやいた謝罪の言葉をつぶやく。
しかしどんなに謝っても、それが何の意味をもたないことを根倉は理解していた。
「根倉」
ひょい、と美幸の顔が消えたはずの居間から覗く。
その表情はけろりとしていて、先ほどまでの落ち込んだ様子はみられなかった。
少なくとも、見かけだけは。

…この少女は、強いのだ。

「あんたも食べるでしょ。つけるのは焼き味噌でいいのね?まったく、納豆に焼き味噌ってどうかと思うけど」
「え…」
「早く来なさいよ」
「は、はい…!」
根倉は頷く。
その優しい心根が嬉しく、そうして有難かった。

美幸の放り出しブーツを並べる。
そうしてぼろぼろの傘を手にして、そっと祈った。
「明日もユキさんを守ってくださいね…」

「自分」が「願って」もおそらくは効果はない。
しかしそれでも願わずにはいられなかった。






2009・8・14










或る少女の恋愛事情








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