或る紅と闇の独白 |
僕は彼らに抱く感情は、だぶん「それ」なのだと思う。 生きていたころにそんなものを抱いたことなどなかったから、正直それが正しいのかどうかはわからない。 そうして、それ故に自分がとっている行動が正しいのかどうかもわからない。 けれど僕が彼らのためにできることといえばひとつしかなかった。 僕は神などではない。 慈悲深く、優しく。 すべての人々に救いを与えるという西洋の神のような素晴らしい存在ではない。 だから僕が彼らを幸せにすることなどできない。 できることといえばひとつだけ。 命を、心さえをも脅かしかねない災厄だけは自らの手で取り除くことである。
或る紅と闇の独白
はじめて僕の話を聞いてくれた青年の名は黒門誠一といった。 生まれたときから身体を病に蝕まれていた彼はとても変わった人物だった。 普通の人たちよりも死を間近に感じているためだろうか。20歳にも満たない年齢には不釣り合いな、妙に達観した考えをもっているようにも見えた。 生き急いでいる。そう言ったほうがいいのかもしれない。 生きることに貪欲である分、彼の眼にうつるものはすべてが美しくて尊いものに見えるようだった。 空に雲。海に町。そこに生きるものたちすべてのもの。 そうして、あろうことか……この僕さえも。 彼は僕を拾い、そうして家に置いてくれた。 一風変わった彼の中には自己犠牲や憐みの心はなかった。 ただ、僕と一緒に居たいといってくれた。それがとても嬉しく、そうしてずるずると留まっているうちに、何年もの歳月が過ぎた。 あるとき彼が首をかしげながらこう言ってきた。 病気の進行が止まっているそうなんです。あなたのおかげでしょうか。 僕はわからなかったので、素直に首を横に振った。 そんな力があるのならはじめから使っている。そういうと彼は不思議そうにふうんと頷いた。 やがて彼には好きな女性ができた。 彼より幾分年上の綺麗なひとだった。 しかし、彼女は身重だった。 そのため彼氏だった男性に捨てられ、ひどく困っているとのことだった。堕胎するにもその時期はとっくに過ぎ去っているとも。 どうすればいいのかわからないの。助けて。 そういって彼女は泣いたらしい。 誠一は彼女のことが本当に好きだったから、彼女に結婚を申し込んだ。 そうしてふたりは結婚した。 婚姻届を提出してすぐに子供は生まれた。 病院に見に行った誠一の顔はいつも以上にほころんでいて、それはそれは嬉しそうだった。三日後には退院できるそうです。あなたにもはやく赤ちゃんをみせてあげたいなあ。 そういってにこにこしていた。 けれど僕は不安だった。 なぜなら自分は疫病神といわれる存在で、これまでもいくつもの家族を壊してきたのだから。 そうしてその予感は的中した。 三日後、帰ってきたのは誠一と赤ん坊だけだったのだ。 聞くと、彼が病院に迎えに行ったときにはすでに病室はもぬけの空だったらしい。そして、病院代としてわたしていた数十万のお金も、すべてなくなっていたとのことだった。 残されていたのは判のついた離婚届と、そうして誠一とは血のつながりのない赤ん坊だけだった。 ほんの少しだけさみしそうにしていたが、それでも彼はにこにこしていた。 それでも、この子だけは残してくれましたから。 誠一はそういって赤ん坊の頬を優しく撫でていたが、僕はただ申し訳なくて仕方がなかった。 彼が本当に彼女のことを好きだったことは傍にいた僕が一番よく知っている。 それなのに僕は、また災厄を招いてしまったのだ。 誠一に家族はいない。 だから彼は、ひとりで赤ん坊を育てることになってしまった。 それでも誠一は赤ん坊をたいそうかわいがっていた。 好きだった女性の子供だからだろうか。そう思っていたのだが、次第にそれだけではないことがわかってきた。 こどもはね、愛されるために生まれてきたんですよ。 誠一はふにゃふにゃと泣く赤ん坊を抱いたまま嬉しそうに笑う。 こんなに愛らしくて、弱いのに強くて。生きるために一生懸命な存在って、他にいませんから。 そういわれて僕はおずおずと赤ん坊に目を向けるようになった。 これまでなぜかすごくこのちいさないきものが怖くてしかたなかったのだが、その言葉でその理由がわかった気がした。 この愛らしくて小さくて弱くて、そのくせに「生きるため」にひたすら「生きている」存在は、今の自分とは真逆の存在だった。 あまりにきれいで、直視もできないほどにまばゆい生きざま。 それをこの世に具現化したものが、目の前のちいさな赤ん坊だったのだ。 美しい幸せ、という意味で美幸という名前にしようと思います。 誠一がそういったとき、僕にとってこの子は幸せの象徴のような存在になったことを感じた。 ……とてもいいですね。 なんとかそういうと誠一もにこにこと笑ってそうでしょうと胸を張った。 赤ん坊を育てるのにはお金がかかる。 誠一のわずかな貯金はすぐに底をついてしまったので、内職だけではとうてい生活していけなくなってしまった。 けれども赤ん坊を置いて働きにはいけない。 めずらしく誠一が困り果てていたので、僕はおずおずと手を挙げた。僕のような闇にまみれた存在がこんなにきれいな存在に近寄るなんて恐れ多かったのだが、少しでもふたりの役に立ちたかったのだ。 はじめ、美幸さんは大泣きに泣いていた。 やさしいお父さんから引き離されて、こんなまがまがしい男しか傍にいないのだ。赤ん坊にもそれがわかるのだろう。ちいさな身体でいっしょうけんめい助けを呼んでいた。 僕は途方に暮れながら、おろおろと美幸さんのそばに座っていた。 赤ん坊の扱いなんてしらないし、こんな自分が触れていいのかもわからない。 ミルクを作ってみたけれど、イヤイヤと首を振ってぜんぜん飲んでくれないので僕はさらに途方に暮れてしまった。 すると美幸さんは僕のほうをまっすぐに見て、そのちいさな両手を伸ばしてきた。 大きな瞳を涙で潤ませながらだあだあと声を上げる。 だから僕はおそるおそる美幸さんを抱き上げた。すごく緊張して手が震え、喉がからからに乾くのを感じた。 力の入らない手で、落とさないように必死に胸に抱え込む。 すると美幸さんは躊躇なく身体を寄せてきた。僕の黒々しい服に顔を預けてふにゃふにゃとなにかを言う。そうしてふいににっこりした。 それに、ふいに胸が締め付けられた。 そうして同時に、喉元にナイフをつきつけられたかのような気分でもあった。 このもろくて弱くてちいさな存在は、一瞬にして僕のたましいをわしづかみにして、決して解けない鎖でがんがらじめに縛り付けてしまったのだ。 その日、仕事から帰ってきた誠一は部屋の真ん中で赤ん坊を抱えたまま呆然としている僕を見て目を丸くした。 どうしたのか問われて僕はわかりませんと答えた。美幸さんを抱きしめたままひたすら泣いていたらしかったが、僕はそのことに気付かなかった。 誠一は僕にタオルを渡しながら首をかしげ、しかし次の瞬間には嬉しそうな笑みを浮かべた。 そうか……。美幸さんのこと、お願いしますね。 その言葉にぽかんとすると、誠一はさらに深く微笑んだ。 僕は彼らに抱く感情は、だぶん「それ」なのだと思う。 生きていたころにそんなものを抱いたことなどなかったから、正直それが正しいのかどうかはわからない。 そうして、それ故に自分がとっている行動が正しいのかどうかもわからない。 けれど僕が彼らのためにできることといえばたったひとつしかなかった。 命を、心さえをも脅かしかねない災厄だけは、せめて自らの手で取り除くこと。 化け物。 悪魔。 助けてくれと懇願されるたびに呼ばれる名にももう慣れた。 恐れに満ちた瞳も、液体をまき散らしながら逃げ惑う姿にももう慣れた。 助けてくれ。 もうしない。 あの親子には手を出さない。 そうして床に頭をこすりつける姿もすっかり見飽きてしまった。 憐みなどは感じない。 感情などこの瞬間には必要のないものだった。 だから僕は黒い外套の下、ただ銃剣の引き金に手をかける。 頭に思い浮かべるだけで具現化するこの歩兵銃剣にはさほどの威力はない。 五十年以上も前に戦場で使っていたそれは、いまにも壊れそうなほどだった。 それでも一般兵だった僕にとって武器といえばこれしか思いつかず、そうして掌に馴染むのもこの銃剣だけだった。 それでも同じ場所に弾丸を打ちこめば肉など簡単にちぎれとぶ。 錆びた剣先でもそれは同じ。 絶望の恐怖。耐えがたいほどの畏怖を植え付けてやれば、奴らはもう彼らに手を出さなくなる。 そう。 たとえのちにそれを夢や幻として置き換えたとしても。 何十篇もの経験でそれを学んだ僕は、だからただそれを繰り返し続ける。 大切な友人と愛しい少女。 彼らには決してこんな姿はみせられない。 けれども世の中には想像もよらないようなひとの害悪があり、それは自分のせいで災厄という形をもって彼らを常に見張っている。 だから、それだけは、彼らだけは守らなければならない。 幸せを与える存在になりたかったと常に思う。 居るだけで幸せを与えられるなら、いや、努力してでも幸せを生み出すことができるならどれほどよかっただろうか。 けれど僕にはそれはできない。 僕にできるのは闇を生み出すこと。 そして、罰を与えること。 ただそれだけだということを、赤いものにまみれた僕はよく知っている。 2011・10・29
或るあかとくろの独白
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