「或る若社長の花嫁」

或る同志たちのはなし







黒門美幸という少女は怒っていた。
それはそれは怒っていた。

相手はやわらかそうな栗色の髪をもつ見目麗しいひとりの男。
この国の経済界でにおいてもけっこうな権限を持つ会社のトップに立つ青年。

しかし黒門美幸という若干14歳の少女にとってはそんなことは関係なかったので、ただただひたすらに怒っていた。


何故なら彼は少女にとって、かけがえのない「同志」だからである。


或る同志たちのはなし







偶然にも大きな車から降りてきた青年を見たときに、勢い任せに突進したのはそのためだ。
携帯電話を耳にあてたままこちらを見て目を見開く男の腹に思いきり抱きつく。
いや、あまりの勢いだったのでそれはタックルというにふさわしい衝撃だった。
青年は踏ん張りきれずに後方に停めてあった自動車にしたたか背中を打ち付ける。そうしてぐうと呻いた。

「桜井さんのバカ! おたんこなす! 」

とにかく怒っていたので、いつも家族である根倉にしているように胸をどんと叩く。
さらに青年が呻くような声がしたがそんなことは気にしていられなかった。
なんせずっと会えなかったのだ。
こうして顔を合わせたのは一か月ぶりぐらいだろう。
本当に偶然の再会だ。
だから美幸はこの偶然を無駄にするつもりはなかった。

「……お前か」

非常に面倒くさそうな声が頭上から響いた。
あわてたように駆け寄ろうとする運転手を手で制し、そうして携帯電話を閉じる。

「この馬鹿娘、離さんか。お前にかまっている暇などない。お前の求婚なども受けるつもりはないぞ」

うんざりとした声音はいつものもの。
この青年は会うたびに嫁にしてくれと迫ってくる美幸に対して良い感情を持っていないのだ。
美幸とてそんなことは百も承知だったがである。しかし、だからといって引き下がるつもりなどひとつもなかった。

だって、美幸は怒っているのだ。
だから腹に手をまわして抱き着いたまま、青年の端正な顔を思いきり睨みつけてやった。

「今はあたしのことなんかどうでもいいでしょう! 」

その言葉に美幸の頭を片手で押しのけようとしていた青年の手がぴたりと止まった。
なので美幸はおでこにその手をのせたまま思いきり叫んだ。

「なんで椿さんのところに行かないんですか! 」
「…………」
「すっごいさびしがってるんだから! 優次とか、あんなに桜井さんのことを頼りにしてるのに連絡ひとつしないなんてひどい。
椿さんだって口には出さないけどさびしそうだって聞きました。仕事と大事な人と、どっちが大事なのよ! 」
ばかちん、と叫びながら再び胸を叩こうとした手は当の青年のてのひらによって遮られる。
むっとして顔を上げると、青年の瞳にわずかに驚いたような色が混じっているのが見て取れた。
それを美幸はさらに睨み付けた。
なによ。あたしは間違ったことは言ってない。
桜井さんが悪い。これはどう考えてもこの人が悪いのだ。

すると青年は、意外にもその唇にちいさく苦笑を浮かべた。
「……お前もわからん奴だな」
なにが、と噛みつくように問うと青年がさらに苦笑する。
その笑みに、美幸はこの人がはじめて自分に向けて笑ってくれたことを知った。
そういえばいままでは邪険にされてばかりだったので、こんな笑みを浮かべられたことはなかったのだ。
それはなぜか。
その答えを思いつく前に青年がさらりとそれを口にした。

「お前は俺と結婚したいんじゃなかったのか。それなのに恋敵の心配をしてどうする」
「……あ!!! 」

美幸は今更ながらに自分にミスに気づいて声をあげた。
そうだった。
たしかにそうなのだ。
自分は幸運を得るために、座敷童子に恋慕している変態男の嫁にしてもらいたかったのだ。
だからあんなにアプローチしていたのに。
怒りのあまり大事な目的をすっかり失念していたことを後悔しつつ、美幸はそろそろと青年の腹から手を放す。
そうして人差し指を頬にあてて可愛らしくえへっと笑って見せた。

「え、ええと、桜井さまぁ、美幸も、桜井さまに会えなくてさびしかったですう〜」
「…………」
「…………」
「…………」
「で、ですよねー……」

何も答えない青年に、美幸ははあと息を吐いた。
だけども仕方がない。
青年の姿をみつけた瞬間に浮かんだのは、しょんぼりとした優次の姿と静まり返った椿の屋敷の光景だったのだ。
ほんの少し前まで本当に幸せそうだった二人がどうしてこんなことになってしまったのか。
その原因が目の前の男にあることは明らかで、だから実のところ美幸はずっと怒っていた。
優次を励ましつつも、実のところかんかんに怒っていた。
だから感情のままに動いてしまったのだ。
うう、嫌われたかなと頭を抱える美幸にかけられたのは、しかし思いもかけない言葉だった。

「お前は結構良い奴だったんだな」
「へ? 」

その言葉に美幸は目を見開く。
こんな言葉をこの青年から聞いたのははじめてだったのだ。
いつもの冷たい言葉や目線、ぞんざいな扱いからは考えられないことだった。

「さ、桜井さんなんか変なものでも食べたんですか? 」
「はあ? 」
「だってこんなに優しいなんておかしい。あ、具合が悪いとか……」

そう言いつつ見上げる青年の顔色はたしかに悪かった。どことなくやつれた印象さえ受ける。
ああ。椿さんにところにこれなかったのも、やっぱり本当に仕事が忙しかったからんだ。
本当にそうだったのに、あたしったら。
美幸が安堵しながらもわずかにばつの悪い思いをしていると、笑みを収めた青年が静かに口を開いた。

「俺は優しくなんてない」
「……え」
「俺は……自分勝手だからな」
「え、そ、それをいうならあたしだって……」

なぜだかそういう青年が悲しそうにもみえて、美幸はあわてて手を振った。
そうして言葉を紡ぐ。

「あ、あたしだって……ううん、あたしのほうが」

美幸はそこまで言ってあわてて地面に視線をおとした。
そう。あたしのほうが最低なのだ。
自分が幸せになりたいから、お父さんと根倉と離れたくないから、桜井さんと婚姻を結びたいと思っている。
お金目当てに結婚したがっている女の人と同じ。
……お母さんと同じような自分勝手な人間。
桜井さんの気持ちや椿さんの気持ちなどより自分の幸せのほうが大切だと思ってる、最低な奴。
ふたりのことを本当にうらやましいと思う反面、自分のしあわせのほうが大事だと思っている。
それを認識することは自分の醜い感情と向き合うことで、だから美幸はそのことを知っていながらみないようにしてきたのだ。
だから事実とはいえそのことを口にすると心がじりじりと痛んだ。

「大事な奴のために自分ができることをするのは悪いことではないだろう」

黙ったまま俯く美幸の前で、ふいに青年がぼそりとそう言った。

「……相手がどう思おうとな」

美幸は青年の静かな顔に視線をうつす。
本当に具合が悪そうで、そうして辛そうにも見えた。
それなのに瞳は色を失ってはいなかった。
それでいて果てない海の底を覗き込むような静けさを感じる。
それに美幸は急に不安になった。
なぜだかはわからない。
けれどもなにかが以前の青年とは違う。
美幸はだから不安になってその名を呼んだ。

「桜井、さん……? 」
すると青年はほんのかすかな笑みを浮かべた。
そうしてその笑顔に見合った、ひどく静かな声を出した。

「お前はもう俺に近づかないほうがいい。あの家にも来るな。そう、優次にも言っておいてくれ」
「え、な、なんで……」
「……現実を、生きろ」
「え……」
「あいつにはそれが必要だ」

美幸は呆然と青年を見上げる。
すると次の瞬間、青年の手にした携帯電話がけたたましい音を立てた。
青年は画面を見てさらに眉を寄せる。
そうして自動車のドアを開けると、電話に耳を当てながら乗り込んだ。
行き場のない手をぎゅうと握りこんで美幸は俯く。去っていく車を目で追うこともできなかった。
どきどきと心臓が嫌な音を立てていて、それがひどく耳障りだったのだ。


現実を生きろ。
そう伝えろと桜井は言った。
現実。幻でない世界。
神様も幽霊もいない世界。
―いないふりをする世界。

でも優次にとっても、あたしにとっても、「今の世界」こそが現実なのに。



「ど、どうしたんですか美幸さん……っ」

家に帰り、そこに当たり前のように居る存在を見て美幸は子供のようにぼろぼろと泣いた。
そうしてその身体に抱きつく。胸に頭をぐりぐりと押し付けながら抱きつく手の力を込めた。
むかしから根倉の身体は冷たい。
黒服越しの身体はまるであたたかくない。

けれどここに居る。
ここに居るのに。

人じゃなくったってなんだって、こいつと一緒に居たい。

大人になるにつれて相手に対しさまざまな感情が生まれていく中、それだけははっきりしていることを美幸は知っていた。
そうしてそれはたぶん、桜井が通ってきた道であろうことも。


――だから、あのひとはあたしの「同志」だと思っていたのに。


美幸はわんわんと声を上げて泣きながら、桜井が自分で言っていたとおり「自分勝手なひと」であることを痛いくらい認識していた。



2011・10・22










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