「或る若社長の花嫁」

或る悲しい恋のはなし







西園寺小町には好きな人がいる。

ただし、結婚願望はまったくない。






或る悲しい恋のはなし








「……小町、別れてくれないか」

イタリアン料理のコースの最後にはデザートが出る。
なかなかによい出来の洋梨のジェラートをつついていた小町の前でアラタはいきなりそう言った。
目の前をみやると、小町の彼氏であり婚約者であった男は頭を下げた。

「わるい……」
「うん。そっか」

実にあっさりと小町は頷いた。
アラタと付き合いだして半年。婚約して三週間。三ヶ月後には結婚式をあげる予定だった。

「いいよ」

小町の答えにアラタのほうが驚いたらしい。目を見開き、呆然と小町をみつめてくる。

「……い、いいのか」
「うん。仕方ないよ」
「……ごめん。お前のことは愛している。けど、オレは長男だし、やっぱり、両親は大事なんだ……」
「うん」
「……ごめん。お前は、いいやつだからきっと他に男がみつかると思う」
「うん」

小町は項垂れているアラタから目をうつす。そうして、ジェラートをすくって口に入れた。

「早く食べなよ。溶けるよ」
「あ、ああ……」

アラタがのろのろとスプーンを手にする。
そうしてアラタとの関係は終わった。
それはそれはあっさりとした、終わりだった。


料理店の前で別れ、ブラブラと歩き出す。
心地よい夜風が吹いていて、暗い夜空にはぽっかりとした月が浮かんでいた。
こつりこつりとヒールを鳴らしながら空を見上げる。タクシーで帰る気がしなかったので、そうしてしばらく歩いていた。
そうすると、やがて目の前に鉄橋が見えてきた。はるか下には暗い河が流れていて、昨日の雨のせいか流れが速い。黒い濁流はごうごうと唸りをあげている。
すこし薄汚れたてすりに両手をのせてその流れを見下ろす。国道沿いであるのにほとんど車も人の姿も無く、河の音だけがしんとした夜空に響いていた。

5歳年上のアラタとはフランスに料理の修業に行っているときに出会った。
アラタは商社マンで、半年出張に来ているとのことだった。話していると楽しかったし、彼の仕事に対する姿勢を尊敬していた。くわえて、マイペースな小町をうまく導いてくれる大人な人でもあった。
プロポーズは日本に戻ってからすぐのことだった。小町は悩んだ末に了承し、それから忙しい日々が始まった。
アラタは長男でひとりっこだった。実家は東京近郊の大きな農家で、近所には親類がたくさん居た。
挨拶をしに行ったときは、だからその親類の多さに驚いた。二十畳はあろうかという客間に集まった人々の視線は、まるで動物園のパンダをみるような奇妙なものだった。
それでもみんな、表面上は応援してくれていたように思う。アラタは本家の唯一の長男だったので、これで本家も安泰だと、誰もが浮かれきっていた。
小町の実家が華族の血筋であることも良い印象であるようだった。小町自身はすでに実家とは縁を切っている。しかしそれでもその血が本家に入るのは有り難い、そのように言ってくる人も居るほどだった。
ご両親も小町のことを歓迎してくれた。よかったと。これで孫の顔も拝めるのね、と。
そのご両親のすすめで健康診断にいったのは二週間前のことだ。なにかあったらいけないし、といわれて小町は感動した。自分のことをそこまで心配しているのだと純粋に思ったのだ。
思えば小町も浮かれていたのだろうと思う。仕事も恋愛も順調にいっていて、悩むことなどほとんどなかった。
そうして三日前。健康診断の結果をアラタに見せた。
そのときの彼の顔は、小町の瞼にくっきりと焼きついている。
そして、ヒステリックな女の声も。


ごうごうと水は唸りをあげている。
小町はそれを見ながらぽつりとつぶやいた。

「……悪かったわねえ……出来損ないで」

今では小町にもわかっている。
アラタのご両親が健康診断をすすめてきたわけ。自分が歓迎されていたわけ。
そうして、てのひらを返したようなこの展開の意味も。
実のところアラタのあの顔をみたときから少しは覚悟していた。
それでも、まさか彼に限ってとも思っていたのだ。つい、昨日までは。

昨日の夜、携帯電話にかかってきた女の声。それは、彼の母親のものだった。


「……だまされたっていいたいのは、あたしのほうだっつーの……」


さきほど飲んだワインのせいだろうか。頭のどこかがぼうっとしていた。
婚約破棄されたあとなのに不思議と感情も波立たない。淡々とした気分の中、小町はふいに眼下の暗い水の流れに飛び込みたくなった。
冷たくて静かで、すごく気持ちよいのだろうな。
そう思ったのだ。

小町はパンプスを脱ぎ捨てる。そうして腕の力でなんとか欄干にのぼった。河からの風が吹きぬけてきて小町の黒髪を揺らす。どこからか潮の匂いがした。この河は近くで、海に繋がっているのかもしれない。

「……うん。いいねえ、それ」

海。母なる海。すべてを生み出したところに生み出せない自分が行くのもいいかもしれない。
小町は手を広げた。そうして重心を前に傾ける。それはとても簡単なことのはずだった。
それなのに。


「う、うわーっ!! 」

なにやら奇妙な叫び声が近づいたと思った瞬間、猛烈な勢いで誰かが腰に抱きついてきた。そうしてそのまま後ろにひきずり降ろされる。降ろされたといっても欄干はかなりの高さであったので、歩道に落ちたといってもいい。ごん、と鈍い音がした。
とはいえ硬いコンクリートに打ち付けるはずだった身体は、なぜかやたら柔らかいものに遮られてまったく痛くはなかったのだけれども。

「いってええ……頭打った……」

小町の下で男が呻く声がした。腰を掴まれたままだったのでそれを振りほどこうとしたが、なかなかその腕の力は緩まなかった。背中から抱きつかれている形であるため、その人物の顔さえも見えない。

「ちょっと、離してよ」

そういうと背後の人物は呻きながら声をあげた。

「いでででで……いや、あのですね、自殺はいけない」
「自殺? 」
「いかんですよ、そんなの……いでで」

そういわれてはじめて、小町は自分がジサツしようとしていたのだと悟った。
感情は落ち着いているのに。悲しいとか悔しいとか、そんなに大きな感情はないのに。
静かになった小町を感じたのか背後の男が力を緩めた。
それで小町はのろのろと起き上がり、命の恩人である男を見おろす。そうして、ここはなんというべきなのだろうとぼんやりと思った。
ありがとう、か。余計な事をするな、か。
しかしその男の顔を認めた途端、思ってもいなかった言葉が滑り出た。
それは人の名前であり、命の恩人である男の名前でもあった。

「……あれ、近藤……? 」

いまだ寝転んだままの男は、痛みに顔をしかめながら小町を見る。
そうしておそらくは小町と同じようにぽかんとした顔になった。

「え、小町……? 」

それは懐かしい声で、懐かしいやさしい響きをしていた。
小町は瞬く。
その音だけで、感情を覆っていた薄い膜のような何かがはらりとはじけたのを小町は感じた。

「近藤……」

何故かはわからない。
けれど、途端にあらゆる感情が身体の底からあふれ出してきた。
ぼろぼろと溢れてくるものは到底小町では押さえ切れなくて、それは水という手段をとって外へとあふれ出る。

「え、ちょっ……本当に小町? というかなんで……」

ぼろぼろと泣きじゃくる小町を見て近藤は慌てて起き上がる。久しぶりにみる高校時代の同級生は、あれから五年経つというのにちっとも変わっていなかった。
よれよれのスーツを着たやや小太り気味のさえない男。
それでも眼鏡の奥の瞳がとてもやさしいことを小町は知っていた。そうして、その声が途方もなくやさしいことも。

「う、ううううう……うわああああん……」
「…………こ、困ったな……」

途方に暮れたような近藤を前に、小町はひとしきり泣きじゃくった。




「何も感じなかった、か。……それは多分、感情が麻痺してたんだねえ」

小町の話を聞いて、近藤はやさしい声でつぶやいた。

「そんなことを言われてショックじゃないわけないじゃないか。人権を無視したことだよ。小町は、間違いなく、怒っていいし悲しんでいいんだ。
だけどあんまり悲しくて悲しくて、それが許容量をオーバーしたから、精神を守るためにこころがそういう手段をとっただけだね」
「……あたし、馬鹿なことをしたわ」
「うん。ジサツは良くない」
「わかってる。でも、なんかもう、ひととして、全部が否定された気がしたの。あたしのこと、全部」
「うん」
「あたしは、子供を生む機械にすぎなかった」
「……うん。彼にとっては……最終的にそうだったんだろうね」
「悔しい……とても、悔しい」
「うん。当たり前だ」

近藤は再び泣き出した小町にテイッシュの箱を渡してきた。
そうして正座をして、小町の背中をさすってくれる。
近藤の部屋は汚かった。男の一人暮らしの四畳半。洗濯物はあちこち散らばっているし、ゴミ袋も散乱している。万年床のような平べったい布団を押しいれに詰め込んで小町の座る場所を確保してくれた近藤は、紙コップにコーヒーを入れてくれた。コーヒーはドリップではなく、ただペットボトルからうつしたものだったのだが、それでもなにやら美味しく感じられた。

橋の上で泣いて泣いて、しまいにはしゃっくりでぜいぜい言っている小町を部屋につれてきてくれたのは近藤だった。
一晩中、ただただ話を聞いてくれた。
泣いてもいいし怒ってもいい。そう言って小町の好きにさせてくれた。
もちろん男女の関係のようなものにはならなかった。
俺は硬派なんだ。高校時代にそう言っていたことを思い出す。
近藤は、そういう男なのだ。


近藤に再会して、再び友達付き合いが始まった。
暇な時に部屋に邪魔したり、ご飯を食べに行ったり。ときには共通の友人のところに遊びに行ったり。
高校時代のころもそうだったなあと思うと心が安らいだ。思えばそのころから近藤は小町の扱いがうまかったように思う。
なかなかにマイペースである小町にとってそういう人物は貴重だった。そうして思い出した。
高校の頃、自分はこの男にハツコイというものをしていたことを。
そして、今もその気持ちが湧き上がっていることを。

「お前たち、付き合ってるのか? 」

共通の友人である桜井にそう言われても、小町はううんと首を横に振る。
想いを告げるなど考えたこともなかった。結婚なんてもってのほかだ。
片想いだからという理由ではない。
高校の時から、小町は近藤の両親を知っていた。近藤に似たとても暢気で明るいひとたち。

「貴史が女の子連れてくるなんてはじめてよー。この子のこと、よろしくお願いねえ小町ちゃん」
「うん、頼むよ。おれににてデブだけどいい子だから」
にこにこしながら部屋を覗きに来て、顔を真っ赤にした近藤にあわてて部屋を追い出されていた。

ほがらかで、やさしいひとたち。
そのひとたちにとって近藤は大切な一人息子なのだ。

――彼らから「孫」という存在を取り上げてはならない。
不幸には、したくない。


自分は仲の良い友達でよいのだ。
恋人になんかならなくていい。
結婚なんて、しなくてもいいしするつもりもない。


「ん? どうしたの、小町」


だから小町は、近藤にむかってただいつものように笑って見せるのだ。





西園寺小町には好きな人がいる。

ただし、結婚願望はまったくない。



2011・9・17










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