「或る若社長の花嫁」

或る隠されたエピソード







たん、と音がする。
近くで、遠くで。その乾いた音はする。
あたしはそれをよく知っている。
それは子供の頃幾度となく聞いた音だった。


「まーた変な音がしてるよ。どっかの馬鹿な不良が爆竹でもしてるのかなあ」

最近は静かだったのにねえ。
あたしが窓の外を見ながらそう言うと、何故だかお父さんはほんの少しだけ悲しそうな顔をした。


たん。
たん。


何かが爆ぜる、音がする。







或る隠されたエピソード








「フジせんぱーい! 」
あたしは大好きなせんぱいの姿をみかけて駆け寄った。
フジせんぱいは買い物途中だったらしい。両手に重そうな荷物を持ったまま、それでもあたしの姿を認めてわずかに目元をやわらげてくれた。
「美幸か。久しぶりだな。元気にしていたか? 」
「はいっ! フジせんぱいもお元気そうでなによりですっ」
あたしはびしりと最敬礼の真似をする。
そうするとフジせんぱいはほんの少しだけ驚いた顔をして、しかし次の瞬間にはそうかとかすかに微笑んでくれた。
フジせんぱいは小さな頃からクールなひとなのであんまり笑わない。けれど最近はほんの少しだけ笑うようになって、あたしはそれを嬉しく思っていた。


フジせんぱいはあたしの恩人である。くわえてヒーローである。
貧乏神のせいで不運続きだったあたしをいろんなことから身を守る術を教えてくれたのはフジせんぱいだった。学校でいじめにあっていたあたしをかばってくれたのもフジせんぱいだった。
5歳年上のフジせんぱいはちっちゃいなりのくせに正義感は強いひとだった。だからだれもが見ないふりをする中、あたしの担任やクラスメイトに向かって直談判をしたり檄を飛ばしてみたり叱ってみたりと一生懸命にしてくれた。ついでにフジせんぱいの保護者のひともフジせんぱいのそんな行動を認めていたので、フジせんぱいは自信をもってあたしのことを助けてくれていた。
お父さんや根倉に心配かけたくなかったあたしにとって、フジせんぱいのような人が居るということは相当な支えになった。5歳差のフジせんぱいはすぐに中学校に進学してしまったけれど、あたしはだから強い気持ちで毎日を過ごすことができた。

それにもうひとつ。
あたしはこのひとに、すごい恩があった。


「このあいだ連れてきた優次は元気か? 」
フジせんぱいのおごりで買ってもらったたい焼きを食べながら雑談していると、ふいにフジせんぱいがそう聞いてきた。
あたしはぎゅうぎゅうに詰まったあんこに感動しながらたい焼きにかぶりついていたけれど、その質問に慌てて首を振った。
優次を連れてフジせんぱいの家に遊びに言ったのは1週間ほど前である。
桜井さんの件ですっかりしょげかえっている優次があんまりもかわいそうだったので、気分転換をかねてお言葉に甘えてお邪魔したのだ。
優次は緊張していたようだったけれど、フジさんぱいの家で飼われているおデブな猫を見てなんだか嬉しそうにしていた。猫に話しかけたり撫でたりして久しぶりににこにこしていた。あれ、あんたってそんなに猫が好きだったっけ。そういうと優次はわずかに迷ったような顔をして、けれどもすぐにはいと笑った。
フジせんぱいも愛猫を好いてくれる優次のことが気に入ったようだった。無口なせんぱいだけど、優次と猫をはさんでぽつぽつと話していた。あたしはせんぱいの保護者のひとが作ってくれていたお昼ご飯とおやつをおいしくぱくついていた。
あたしはせんぱいのことが大好きである。だからそのせんぱいが一番大好きに思っている保護者のひとにちょっとジェラシーを感じたりするのだけれど、残念なことにこのひとの料理はすごくおいしいのでそれだけは認めざるを得ないのである。
あの日は、そんなふうにのんびりと過ごしたすごくやさしい日だった。
優次も楽しかったらしくて、帰り道なんてにこにことしていた。
とはいえここ数日はやはりしょんぼりする回数が増えてきたのだけれど。
「はい。元気ですよ」
だけどあたしは嘘をついた。
フジせんぱいに心配をかけるのは忍びなかったのだ。このやさしいひとは、きっと自分のことのように心を痛めてしまう。
そう思っていると、せんぱいはたい焼きを両手に握ったままあたしのほうを見た。
「あの子はすこし美幸に似ているな」
「え」
あたしはびっくりした。その拍子にごくんと飲み込んだあんこが喉に止まってむせてしまう。慌ててお茶を飲んでぜいぜいしていると、せんぱいがぎこちなく背中をさすってくれた。
「あ、あたしが、優次とですか? 」
「ああ」
「……えー。あたしってあんなにヨワムシで泣き虫ですか? 」
あたしは不服に感じて唇を尖らせた。優次は可愛いしいい子だけれど、ちょいと泣き虫すぎると思うのだ。
するとフジせんぱいはその大きな瞳をゆるくやわらげた。
「ああ。よく似ている」
「どこがですか? 」
「……悲しいことを自分で抱え込みがちで我慢するようなところ」
「えー。あたしってそうだったですか? 」
「ああ。けれど途中から少しだけ変わったような気がするが」
「……」
あたしは膝の上で握っているたい焼きに目を落とした。
――途中から。
たぶん、それはあのときからだ。根倉の正体を知って追い出そうとう躍起になった。そしてその後、根倉が此処に居る本当の理由を知った。あのとき。
あたしはあのとき決めたのだ。
ぜったいにお父さんと根倉と、3人で平和に暮らせる世界を手に入れるって。
だからあたしは我慢することをやめた。
その目標の為ならなんでもするって思った。
そんなあたしを根倉とお父さんはいつも心配してくれた。だからあたしもふたりちゃんと甘えることにしたのだ。いままで心配をかけたくなくて黙っていたこともいろいろ打ち明けた。
「強くなったと思う、美幸は。ご家族のおかげだろう? 」
「……はい!」
せんぱいの言葉にあたしはこっくり頷いた。
そう。あたしは強くなったと思う。叶えたい目標が出来て、受け止めてくれる人ができて、あたしはうんと強くなった。
「……優次は、そういう人は居るか? 」
そうしてぽつんとつぶやかれたせんぱいの言葉に、あたしはフジせんぱいの思いを知った。
フジせんぱいはさすがあたしのヒーローだと思う。この人は、誰にだってやさしい人なのだ。
「はい、大丈夫。居ますよ! 」
だからあたしは胸をはって答えた。
あたしにとってのお父さんと根倉。優次にもそのような相手はちゃんといる。
「桜井さんっている大人の癖にツンデレなひとと、椿さんっていうとっても優しい女の人が居るんです。その人たちが優次の支えになってるから、大丈夫です! 」
「そうか。それはよかった」
「はい! 」
あたしは何度も頷いた。目の前のちっちゃいくせに格好良いヒーローはやっぱり昔から変わっていない。
そう嬉しく思っていると、ふいに乾いた音がした。
たん、という何かが爆ぜる音。
あたしは首を回して溜息をつく。まったく、またこの音だ。
「もー。まーた爆竹が鳴ってますねえ。どこの不良がやってんのかしら」
ぶつぶつと文句を言うと、フジせんぱいはきょとんとした顔をした。
「何か鳴ったか? 」
「はい。……ほら、また」
「……」
フジせんぱいは耳を澄ませたようだったけれど、やがて諦めたように首を振った。
「いや、わたしには聞こえないようだ。耳が悪くなったかな」
「そんなせんぱい、まだ10代なのに」
あたしはそこでふと思い出してフジせんぱいを見上げた。
「そういえばあのときもこの音がしてましたねえ」

あのとき。
それはあたしがフジせんぱいに受けた最大の恩のことだった。
小学校低学年の頃、あたしは誘拐されかけたのだ。とはいえあたしは気絶させられていたので、そのときのことはほとんど覚えていないのだけれど。
覚えているのは助けてくれたのがフジせんぱいだということ。
そして、この音だけだった。

「犯人も不良だったのかな」
あたしが言うとフジせんぱいはかすかに困った顔をした。
「美幸。何度もいうがあの時わたしはお前を助けていない。ただ、道で倒れていたお前をみつけただけだ」
「まーたまたー」
奥ゆかしいせんぱいは、あたしを助けたことを内緒にしているようだった。
だけどあたしはせんぱいが助けてくれたのだと確信している。だって、せんぱいほど強い人をあたしは知らない。


たん、という音が秋の空に響く。
あたしはその音を聞きながら、残っているたい焼きをおいしく頬張った。



2011・9・11










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