「或る若社長の花嫁」

或るおひめさまのはなし








ユウジはレンにとって、誰よりも素敵な「おうじさま」だった。






或るおひめさまのはなし







「ここが日本だよ」

知らない国に連れてこられて、5歳のレンはたいそう困惑していた。
まわりの人たちはみんな黒い髪と黒い瞳ばかり。薄い顔立ちもほとんど同じようにみえて、レンにはさっぱり見分けがつかなかった。
喋る言葉もこれまで居たところとは全然違う。ニホンゴ、というらしいけれどもレンの両親が時々使うだけで、レンにはほとんど理解などできなかった。
だからレンは、母親の手をぎゅうと握ってずっと下を向いていた。
周りの人たちは不思議なひとたちばかりだった。下を向いているとじろじろレンを見てくるのに、話しかけようと目を合わせるとさっと視線をそらすのだ。
レンには友達がたくさん居た。泣き虫のエミリーにやんちゃなジョセフ。お隣のマリアおばさんもとっても優しかった。
元居た場所に帰りたい。
しかしそう訴えても、母親は困った顔で首を振るばかりだった。
レン、今日からは日本で暮らすのよ。パパのお仕事の場所がここになったのだから。

新しい家はとても狭いところだった。前の家の半分もないし、庭なんてほとんどない。まわりの家はもっと小さくて、おもちゃの家のようだった。
ぎゅうぎゅうに家を詰め込んだ町。そこがレンの新しい町だった。

レンはしばらく家でひとりで遊んでいた。大好きな絵本を何度も読んだり、人形でおままごとをしてみたり。
けれどもすぐに飽きてしまったので、勇気を出して近くにある公園に行くことにした。
そこではたくさんの子供が遊んでいた。黒い髪に黒い瞳の子供ばかりだったけれど、とても楽しそうに笑っている。
だからレンは嬉しくなって、一緒に遊ぼうと声をかけた。またたくさん友達ができればいいな。そう思った。
けれども現実はそうはいかなかった。子供たちにはレンの言葉がさっぱり理解できなかったのだ。そしてレンもニホンゴなどわからなかった。
いくつかやりとりをしたけれど、やはりわからなかった。子供たちは面白くないと判断したのだろう。あっさりと自分達の遊びに戻ってしまい、レンはひとりぼっちになってしまった。
子供たちがたくさん居た砂場は誰も居ない。もう一度声をかけようとすると、一番大きい子供がガイジンガマタキタゾ、ニゲロ、と言った。それを合図に子供たちがさっと走っていく。
レンはしばらくぽかんとしていたが、やがて黙って俯き、スカートの裾をぎゅうと握り締めた。
それは家でひとりで居る時よりうんと寂しいことだと思った。胸からぐっとこみあげてくるものがあって、喉が震える。
レンは俯いたまま踵を返した。泣かないように唇を噛み締めたまま家路を辿る。
しかし、家にはたどりつけなかった。
目をこすりながら、寂しいことに頭を支配されながら歩いていたのが悪かったのだろう。
レンは見知らぬ町で、迷子になってしまったのだ。


知らない町はごちゃごちゃしていた。同じような小さな家がびっしり並んでいる町はどこもかしこも同じように見えたし、歩く人たちも同じような顔立ちのひとたちばかりだった。
レンは一生懸命帰り道を思い出そうとしたができなかった。家と公園は本当に近かったはずだ。それなのに、ここはどこなのだろう。
レンはスカートのすそを力いっぱい握ったまま、うろうろと歩き続けた。けれどもいくら歩いても似たような景色ばかりで、レンの家にはおろか公園にすらたどり着けなかった。
そのうちにずっと歩き続けていたせいか足が痛くなってしまった。よろよろと電柱の側にしゃがみこむと、途端に心細さが身体のおくからぐうっと湧き上がってきた。
かえりたい。
つぶやくと押し込めていた感情がぽろぽろと零れ出した。
さびしい。かえりたい。こんなところ、もういやだ。
感情と共に涙も溢れてきて、レンはしゃがみこんだままひゃっくりあげた。
これまで我慢していた分、びっくりするぐらいたくさんの涙が溢れてくるのがわかった。
電柱の影に隠れたまま、レンはだから声を殺してなきじゃくった。

泣きじゃくって喉も鼻も痛くなって。
夕方の冷たい風にながい金色の髪が冷たくなってしまったころ、レンはふいに声をかけられた。

その頭上からの声に、レンはびくりと身体を強張らせる。
水の膜を通しておそるおそる顔をあげると、そこにはひとりのこどもが立っているのが見えた。青いパーカーが目にも鮮やかな、ニホンのこども。
レンと同じくらいの年のこどもは首を少しだけ横に傾け、そうして再び同じ言葉をかけてくる。しかしレンにはさっぱりわからなかった。
ニホンゴなんてわからない。そういうとこどもはきょとんと目を瞠った。おそらくはレンの言葉は通じていないのだ。レンにニホンの言葉がわからないように。
だって、わからないんだもの。
レンはつぶやいた。
ニホンゴも道も、おうちもわからないの。どうすればいいかもわからないの。
言葉に出してしまうと悲しさがさらに大きくなってくる。
コントロールできない涙をぽろぽろと零すとこどもは驚いたようだった。
慌てたように何かを言ってしゃがみこんでくる。そうしてレンの顔を見て、かすかに困ったような顔をした。
それを見てレンのこころがきゅうと冷える。
レンは外見からして「ガイジン」というやつらしい。だからこのこどもも公園の子供たちのように逃げ出してしまうのかもしれなかった。
スカートを握り締める。そうして顔を俯けた。
プラチナブロンドにブルーアイ。これまで皆が褒めてくれていたもの。
それが今はすごくいやなものに思えて、だからレンは必死に俯いてその顔を隠すようにした。
するとそんなレンの頬に、ふいにあたたかなものが触れた。それはレンの冷え切った頬をすべってゆく。
しかしあまりにレンの涙が多かったのだろう。こどもはちいさな指先ではすべてを拭いきれないと思ったのか、今度は自分の服の袖をぐいと顔におしつけてきた。
さすがにびっくりして顔を上げる。
するとそのこどもの顔は、思ったよりも近くにあってさらにびっくりしてしまった。ニホンンジンの顔はみんな同じに見えていたけど、間近でみるそのこどもの顔はすごくやさしいものに見えた。
こどもはレンの涙をすべて拭ってにこりと笑う。
そうしてまた何かを言った。
大丈夫だよ。
大丈夫。
ぼくがなんとかしてあげるからね。

そうしてそれは、レンが日本で覚えた最初の言葉になった。


こどものいうことは正しかった。手を引いて連れて行ってくれた先では制服を着た大人の人がいて、その中の一人がレンの言葉をわかってくれたのだ。

そうしてそこで、レンはこどもの名前をようやく知ることができた。
やさしい男の子の名前は、ユウジといった。


レンはユウジのことが大好きになった。
小学校で偶然再会してからは、もっともっと好きになった。
ユウジはとてもやさしかった。レンの言葉が分からなくても最後まできちんと話を聞いてくれたし、いろいろなことを丁寧に教えてくれた。
クラスの男の子たちになかにはレンを馬鹿にする子も多かったけれど、ユウジはそうではなかった。いつでもレンをかばってくれて、やさしい声をかけてくれた。
やさしい声の男の子の言葉をもっと知りたくて、レンも一生懸命日本語を覚えた。拙いながらも会話が出来るようになったとき、ユウジは大きな瞳を細めて偉いね、といってくれた。

ユウジはレンにとって、王子様だった。
童話に出てくる王子様。悲しい目にあっているお姫様を助けてくれる、勇敢でやさしい、だれよりも素敵な王子様だったのだ。


小学2年にもなると、レンはすっかり言葉に不自由などしなくなっていた。だからこそ気づくことがあった。
ユウジが時折、クラスの男の子たちにいじめられていることに。

レンはそんなことをする男の子たちにかんかんに腹を立てた。そんなことしないで。ユウジをいじめないで。
そういうと男の子たちはだって、とまなじりをつりあげた。だって、そいつ変なことばっかりいうんだもん。ユーレイが見えるとか、嘘ばっかりいうんだぞ。
ユウジが嘘なんかいうはずないじゃない。
レンはあっさりと言い返した。
ユウジは嘘なんていわないもの。ユウジがいうことならそれは本当のことなのよ。
そういうと男の子たちはむっとしたようだった。ウソツキをかばうなんてお前もウソツキだ。そういってレンを小突いた。

そのことを知ったユウジはすごく悲しそうな顔をした。そうしてごめんね、と謝ってくる。
レンにはユウジが謝る理由がわからなかった。だから尋ねた。
どうして謝るの?
だって本当にユウジにはユーレイが見えるんでしょう?
するとユウジはうんと頷いた。
本当だよ。それは嘘じゃないよ。でも……。
ユウジはそっと俯いた。俯くと前髪がはらりと目元まで落ちて、きれいな優しい瞳まで覆い隠されてしまう。
それにレンは悲しくなった。ユウジが悲しい顔をするのは、自分にとってとてもいやなことだと思ったのだ。
ならユウジは悪くない。謝る必要なんてない。嘘じゃないのに、嘘だっていうほうがおかしいのよ。
レンはだから、必死にユウジに訴えた。一生懸命喋っていると、なぜかレンのほうが瞳が潤んでくるのが不思議だった。
ユウジもそれに気づいたらしい。ほんの少しだけ目を瞠って、そうしてレンの大好きな、ふんわりやさしい笑顔を見せる。

……レンちゃんは、やさしいね。

やさしい声と笑みに、レンの胸がぎゅうと締め付けられた。
頬に熱がのぼる。さらに涙が出そうになる。
そうして思った。
やっぱりユウジは、レンの王子様だ。
でも。
だけど。

……では、このやさしいひとを守ってくれるのはいったい誰なのだろう。

レンはだから、そのとき決めた。
お姫様なんかやめようと。
守ってもらうばかりのお姫様なんてやめようと。
そうして自分が王子様になって、ユウジを守るのだと。


レンが変わったのは、そのときからだった。
背中まで届いていた長かった髪をばっさり切って、スカートばかりだった服装を変える。喋り方も態度も、男の子のように変えた。そうするとクラスの男の子よりも強くなったように思えて自信がついた。
現にレンは、大抵の喧嘩になら負けなかった。

髪を切ったときにユウジはびっくりしたようだったけれど、レンのひそかな決意にまでは気づかないようだった。
変かな、とおそるおそる問うとううん、とユウジは首を横に振った。レンちゃんはなんでも似合うね、と言ってくれた。
だからレンは、それで満足だった。
ひらひらしたスカートもおひめさまのような長い髪も気に入ってはいた。
けれど「王子様」には、まったく必要の無いものなのだ。


それからレンはずっと、ユウジを守ってきた。
ユウジはいじめられても反論も反撃もしない。だからかわりにレンが頑張ることにしたのだ。幸いレンの背丈もぐんぐんと伸びて力も強くなったので、男の子との喧嘩になどほとんど負けなかった。
けれども無傷というわけにはいかず、かるい擦り傷ならたくさん作っていた。しかしそれを見るたびにユウジは悲しそうな顔をする。レンちゃんがそんなことをしなくていいんだよと、泣きそうになりながら何度も言ってくる。
けれどもレンは聞かなかった。
ユウジが嘘なんてついていないことはレンが一番よく知っている。それなのにユウジを馬鹿にするやつらのほうが悪いのだ。
大丈夫だって。ユウジは俺が守るからね。
すっかり男言葉も板についたレンがそういっても、ユウジの顔は晴れる事はなかった。


そうしてある日。
ユウジはレンに言ってきたのだ。
レンにとってあまりに、残酷な言葉を。

「……もう、友達でいるのをやめよう」


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レンは2階の教室から、家路に着く優次の背中を見ていた。背負っているランドセルは泥でぼろぼろに汚れてしまっている。
それはレンの指図によるクラスメイトのせいであったが、そんなことをしてもちっとも気が晴れることなどないことは、自身が一番良く知っていた。



友達を辞めよう。そういったその日から、ユウジはレンと一切話すことはなくなった。どんなに話しかけても無視をされる。なにか悪いことをしたのだろうかと何度謝っても、それは変わらなかった。ユウジは頑としてレンと話そうとしなくなったのだ。

そうすると何故だか自然にレンには友達が増えた。いまではクラスのリーダーと言ってもいいだろう。話す友達も居るし遊ぶ友達もたくさんできた。
けれどもレンはユウジと話したかった。
しかし何度話しかけても、遊ぼうと誘っても無視をされる。レンのほうを見もしないし視線も合わない。
次第にレンのこころもぼろぼろになってしまった。嫌われたと認めてしまうことはとても悲しかった。

そうしてある日、レンはユウジを突き飛ばしてしまった。故意ではない。こちらを見て欲しくて、肩を掴んだ。そのときに勢いあまってユウジが転んでしまったのだ。
ごめん、そう言いかけた言葉が途切れたのはユウジがレンを見たからだった。一瞬だけれどびっくりしたような目でレンを見た。すぐにさっと逸らされはしたけれど、たしかにレンを見てくれたのだ。

これまでどんなに謝っても話しかけても、こちらを見てくれなかった。ここに「居る」のに、「居ない」かのように扱われることはなにより寂しかった。
だけどこうすれば、優次は見てくれる。

レンを「ここに居る」と、認めてくれるのだ。




「レンなにしてんのー。一緒にやろうぜ」
「いや、俺はいい」

レンはかけられた声に振り向いて首を振った。放課後の教室には6人ほどの男子が残っている。
その中の二人がひとつの机に向かい合って紙に手を置いていた。何かを話してはけらけらと面白そうに笑っている。
それはこの学校で、今一番はやっている遊びだった。
紙に文字と数字を書いて10円玉を置く。そうしてまじないで狐の霊を呼び、質問したことを答えてもらう。「こっくりさん」という遊び。

「すげえんだぜ。これ、本当に10円玉が勝手にうごいてる! 」
机に向かい合っているひとりがレンの方を見て興奮気味に叫んだ。
「質問にもなんでも答えてくれるんだぜ! 」
「鈴元の好きな奴とかわかった!それが当ってんの! 」
「……へえ」
レンは唇を歪めた。幽霊などいない。そういって優次をいじめていたのは誰だったのかと問い詰めたくなる。
しばらくぎゃあぎゃあと騒ぐ男子達を見ていたが、レンはふと思いついた疑問を口にした。
「……願いとか、叶えてくれるのかな」
そういうと、男子生徒はそろって顔を見合わせる。しかし目の前で起こっている不思議な現象に興奮しているのだろう。じゃあ聞いてみようぜと、誰かがいった。
「こっくりさんこっくりさん。こっくりさんは願い事とか叶えてくれたりしますか? 」
その途端、ふたりの指の乗っている10円玉がふるりと震えた。そうしてそれはゆっくりと動き出す。わあ、と誰かが歓声を上げた。10円玉の行き着いたさきは「はい」の文字の上だった。
まじで。なにする。
ぎゃあぎゃあと色めきたっている男子たちを尻目にレンは10円玉に近寄った。
そうしてそれを静かに見下ろす。
こっくりさん。きつねの霊。おいなりさん。
正体なんてどうでもよいと思った。
願いを叶えてくれるなら、どうだっていい。


ねがいごと。
昔も今も。レンには、ねがいごとなんてたったひとつだ。


「……じゃあ、俺は……」



2011・9・3










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