「或る若社長の花嫁」

或る千切れた紅の色








侮蔑も嫌悪も。
倦むような永遠の生すらも喜んで受けよう。

それは、私の罰なのだから。






或る千切れた紅の色







「最近、桜井のこせがれを見ぬのう」


その事実をあっさりと口にしたのは、やはり昔なじみの金髪の男であった。
この家に頻繁に来る優次や美幸ではない。正美がやってこないことを良く知っている子供たちは、かえってその話題を避けているふうであった。
優次はもとより、美幸という少女も子供らしくない気の配り方を知っている。
おそらくは自分に気を使っているのだろう。そう思うと申し訳なく思ってすらいた。
しかしこの男はそんなことには頓着しない。
それは出会った頃からそうであったし、彼の正体は自由きままで知られる生き物であるのだから、仕方がないのだろうとは思っている。

「ああ、そうじゃな」

それでも動揺が出たのだろう。取りそこねたお手玉は板張りの縁側にむなしく落ちた。
その横では寝転んだ男のしっぽのような髪が、しずかに陽光をはじいている。
やがてそれはゆるりと動き、男は庭に向けていた顔を身体ごとこちらに向けた。いかにも眠そうな蒼の瞳をこすり、そうしてふああとあくびを洩らす。

「なにかあったのかの? 」

茫洋とたずねる口調に心配げな色はあまりない。
それに、かえって心を落ち着けることが出来た。
もっとも触れられたくない話題。しかしいまの彼女の頭の中を埋め尽くしているのはそのことばかりだったから、もしもやさしげな言葉をかけられていたら、みっもなく動揺していたかもしれなかった。

椿はお手玉を拾い上げる。彼女のちいさな手にぴったり合うように作られたそれは、まだ小さかった正美がもってきてくれたものだった。鮮やかな紅で染められていた布は、いまでは陽にさらされすっかり色褪せてしまっている。
それを見ながら椿は、ちいさく笑って見せた。

「さあのう。けれど、よい娘ができたのなら良いとは思っておる」
「……ほう」
「あやつももういい年じゃ。こんな婆のところに来るのは少しでも早く辞めた方がよかろうて」

それは本心の言葉だった。
本来ならば、椿と正美の別れは正美が13歳の時にすんでしまっている。それなのに馬鹿な子供はこんなあやかしに執着してずるずると大切な年月を費やしてしまった。
それは、おかしなことなのだ。

「うーん、いまさらあのこせがれが諦めるとも思えんが」

六尾は言い、どこか面白そうに瞳を細める。

「あやつは変わっておるからの」

それは違いない、と椿は思った。しかし六尾に言われるのは不本意だろうとも思う。
なんせこのあやかしも、猫又にしては相当な変わり者なのだから。
そう思いながらついとお手玉を上に投げた。ゆるやかな弧を描くそれを反対側の手で受け止めると、小豆の小気味良い音が響く。
六尾はしばらく黙っていたが、やがてするりととつぶやいた。

「……この間もおぬしの過去が知りたいと言っておった」
「……! 」

受け止めそこねたお手玉は鈍い音を立てて六尾の顔の横に落ちる。
目を見開く椿には気づかないのか、六尾はのんきそうに言葉を続けた。

「優次坊から話を聞いたらしくての、わしにこの土地の夢を見せろと言ってきおった。とはいえこの土地の記憶は膨大だからのう。単なる人の身、気が狂うかもしれんと言ったのだが、どうしてもと言うてきかん。だから」
「見せたのか」

言葉を引き継いだ椿の声は震えていた。
六尾はそこでようやく瞳を昔なじみの人妖に向ける。幼い姿のあやかしの顔は、すっかり色を失っていた。

「ああ」
「すべてか」
「いんや。すべてを見せたらヒトの頭では耐えられんだろう。だから時期をしぼって……それでも二百年ほどかの。ヒトには辛かったろうて」
「……あのときか」

椿は呻くようにつぶやいた。

一ヶ月ほど前のことだった。
庭を散歩していた椿が奥座敷に帰ってくると、一人で来ていた正美が珍しく昼寝をしていたのだ。
青年になってしまった正美の昼寝は珍しく、椿はなんとなしに嬉しく感じてその側に座り込んだ。毛布をかけてやり、やわらかな栗色の癖毛をそうっと撫でてやると昔のことを思い出した。

正美はなかなか目覚めなかった。
陽が落ち、闇が深くなってきたころになると椿は悩み始めた。そろそろ起さなければ風邪をひいてしまうのではないだろうか、と。
しかし自分に起す手段はない。
やきもきしながら起きろ、と軽く頬に触れる。すると頬は冷たく濡れていた。
正美は寝ながら涙を零していたのだ。
それにただおろおろとしていると、やがて正美は目を開いた。開いた拍子に透明なものがさらに滑り落ちて椿はいたたまれなくなった。触れて、涙のひとつ拭ってやれたらよいのにと心底思った。
すると、正美がつぶやいたのだ。
いくつかの言葉は聞き取れなかったが、その言葉だけは椿の耳にはっきりと届いた。
憎憎しげにつぶやかれた、その言葉。

「……勝手なことを……」



その言葉を思い出した途端にズキリと胸のあたりが痛んで、椿は両手でそこを押さえた。
押さえる両手も指先から力が抜けていくようだった。よくみたらふるふると震えていて、椿は軽く自嘲する。
あるはずのない心臓が痛い。

ふいにそうか、と納得がいった。
あのときの言葉の意味。
正美がこの家に来なくなった理由。

だからこんなにも苦しくて辛い。

「……嫌われたか」
「? 」

震える声に驚いたのだろう。わずかに見開く六尾の瞳は綺麗に青い。
あの頃からそうだった。
金の髪の、青い瞳のぼうさまは偉いんだよ。そう教えてくれたのは兄だった。
眠れない夜に子守唄を歌ってくれた母。雨でぬかるんで歩き難かったあぜ道を肩車してくれた父。

――そんな彼らに自分がした恐ろしいこと。

正美はそれを見たのだろう。
たかが夢。
けれども、この地が見る夢は記憶そのものだ。


「……勝手なことを……」


正美の言葉が蘇る。
それは憎しみに満ちた音をしていた。泣いていたのは裏切られた悲しさだったのだろうと思った。
何故なら彼は、訳知り顔で自分に説教を垂れていたあやかしの性根に気づいたのだ。
自分の勝手に、思うがままに、家族をあんなふうにしてしまった忌むべき存在。
これまで慕っていた「椿」というものの正体。

椿は両の手を胸の前で握り締める。
それで震えをなんとか押さえ、そうしてふうと息を吐いた。

「……いや。なんでもない。感謝するぞ、六尾」
「……感謝? 」
「ああ。ありがたい」

わずかに硬い声を出す六尾を尻目に落ちているお手玉を拾い上げる。
色褪せて、いまにも壊れてしまいそうなそれは正美の椿への感情そのものに見えた。
けれどそれで良かったのだと思う。
嫌われてしまえば、正美はここに来ることはなくなる。
椿という幻の存在に馬鹿な執着をすることもない。

「……これで正美は、ようやく人の道に戻れる」


お手玉を握り締めると、弱っていた糸がほつりと千切れた。
千切れた布の間から艶やかな小豆が、ざあっと板張りに散らばっていく。
切れて、散らばって、壊れてしまって、それはもう戻らない。



侮蔑も嫌悪も。
永遠の生すらも、喜んで受ける。
……受けようと、決めた。


何故ならそれが、私の罰なのだから。





2011・8・21










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