「或る若社長の花嫁」

或る人とかみさまの話







人の持つ運は、誰もが一定量で定められている。







或る人とかみさまの話








誠一がそのひとに出会ったのは19歳の時。
薄暗い、橋の下でのことだった。

その日はずっと灰色の雲が空を覆っていて、いつその重たい瞼から涙を零してもよいような日だった。
誠一は鞄の中に折りたたみ傘を持っていた。しかしさきほど、病院の玄関で会ったお年寄りにそれを渡してしまっていた。
だから誠一は、降り始めた雨を避けるためにその橋のしたにやってきたのだった。
誠一はゆっくりと歩いていた。
天から零れてくる雨は冷たい。
だから走ってしまいたかったが、少しでも走ると彼の心臓は悲鳴をあげてしまうつくりになっていた。
その間にも雨は強く降り始めた。
冷たいそれは、長い闘病生活で色が抜け落ち、すっかり真っ白になってしまった髪を無遠慮に濡らしていく。
誠一はゆっくりと歩きながら、そっと空を見上げた。
頬に雨粒があたり、それに思わず頬をゆるめる。
冷たい雨は、わずかに微熱のあるこの身体をそっと冷やしてくれているようだった。


橋の下には先客はいないようだった。
太陽のひかりもない今は、ただただ暗闇が澱んでたゆたっている。
誠一は橋のしたまでくると、鞄からタオルを取り出した。ひっぱり出す時につい先ほど処方された薬袋が落ちてしまったので、それを拾い上げる。
これを飲むのは2時間に1回。発作が出ればすぐにでも。だから誠一のかばんにはいつもそれが入っていた。
ゆっくりとした所作で丁寧にそれを鞄に入れなおし、タオルを首にひっかける。
それだけの動作で息が切れてじわじわと倦怠感がおそってきたので、誠一は橋げたのほうを見やった。
背もたれがあれば少しは楽になる。
そう思ったので橋げたの壁に背中をつけて、ゆっくりと座り込んだ。

息切れを抑えながら瞳を閉じる。
聞こえる雨音は、いっそう激しくなっているようだった。
ばらばらと橋に降り注ぐ雨音と川面をたたく水と水の音。それに時折頭上を通る自動車がたてる音はそれぞれの音を主張していてとても小気味いい。
これはめずらしいものを聞けた。これも雨が降ったおかげ。
すなわち、自分はとても運がいい。
だから誠一はけだるい身体の中で微笑んだ。

人生は、とてもうまくできている。

ひとりでにこにこしていると、ふいに人の視線を感じた。
この場所にはさきほどまでは確かに誰も居なかった。雨の中を誰かがここに来たのなら音で分かるはず。
なのにそんな音はせず、それなのに「そのひと」はたしかに「前」に立って自分をじっと見下ろしていた。

――まるで、暗闇だ。

誠一がまずはじめに抱いたのはそんな印象だった。
こどものころ、入院していた病院の個室にはいつも暗闇があった。消灯後の部屋はほんとうに暗くて、ベッドサイドの灯りをつけても部屋の隅まで照らすことはできなかった。
だからその暗闇はゆらゆらと揺れながらじっとりとそこに澱んでいた。
こどもの自分はそれが本当に怖かった。
暗いから、怖い。それは人間の本能によるものなのだと思う。
かつて野で生きてきた人間にとって、自分を捕食する何かが潜んでいるのかもしれない暗闇は自らの命を脅かすものだった。
だから、「生きている」人間はそれを恐怖する。
畏怖する。
身が竦むような心持ちになり落ち着かない。だからひとは、それを避けて生きていく。

いま、誠一の横にいる人はまさにその気配をしていた。
恐怖、畏怖。得体の知れないおそろしいもの。
この世の恐怖をぎゅうっと凝り固めてできたような、気持ちの悪いもの。
きっと「生きているもの」ならそれを避ける。
避けざるを、えないもの。

その「暗闇」はぼうっとした瞳で誠一を見ていたが、やがてふらふらと歩き出した。
黒い外套の裾から覗く足には闇のような色の軍靴を履いているのが見えた。しかしひとつも足音がしない。
やがてそれは、誠一から幾分離れたところの壁際に座り込んだ。
その瞬間、物陰にいたのだろう小さな生き物たちがざあっとはじかれたように四方に散っていった。
いや。それらが「その人」から「逃げた」のだろうことは、誠一にも本能で理解できた。
それほど彼は、禍々しい気配をしている。

その人はそれをぼんやりと見やり、やがて自らの膝をゆっくりと抱えこんだ。
黒い外套に覆われた膝小僧に額をつけると、それでその「暗闇」の表情はいっさい見えなくなる。

誠一は気だるい身体をそっと起こした。微熱のせいだけではない汗が背中をつたう。
おそらくは「本能」がここから逃げろと告げている。しかし誠一は、それに素直に従うつもりはなかった。
だから、声をかけた。
「こんにちは。すごい雨ですねえ」
しかし暗闇に似た人は答えなかった。膝に額をつけたままじっとしている。
誠一はそれにかまわず話をつづけた。
「初夏だというのに少し寒いくらいです。ああ、でもその外套を着ていたら寒くはないのでしょうか」
その言葉にその人はゆるりと顔をあげた。
真っ黒な前髪が顔を右半分を覆っており、わずかに覗く左の瞳がこちらを向く。
茫洋とした瞳と目が合ったので、誠一はにっこりと笑って見せた。
途端にその瞳が大きく見開かれた。電撃に打たれたように身体を起こす。
そうしてしばらくぱくぱくと口を開いたり閉じたりしたあと、禍々しい風体に不釣合いな、実にか細い声を出した。
「……じ、自分が見えるのですか」
「はい」
誠一はにっこりと返事をしたが、暗闇に似たひとはその青白い顔をさらに青くさせた。
「……え、ど、どうして……」
誠一は緩慢な動きで首を傾けた。
黒髪に黒い外套、ごつごつとした黒いブーツ。
外見だけでなくその言葉で、暗闇を凝固させたような気配をもつひとの正体にはなんとなく検討がついた。
そうか、と実に落ち着いた気分で思った。
「うーん。そうですねえ……ぼくはきっと、片足を棺おけにつっこんでいるから、ではないでしょうか」
死神か幽霊か。
誠一には霊感などというものがなかったからこれまで見たこともなかったけれども、目の前のひとはおそらくは「人間」ではない。
とすると、考えられるのはそれだけだった。

――すなわち、自分は「生きているもの」ではなくなりかけている。


生まれたときから心臓が弱くて、生きているのが不思議だとさえ言われてきた。
もって20歳。それまでにこの心臓は壊れてしまうだろうとも。
現在は19歳。
現代の医学で示された数字の、ぎりぎりの年齢。
これまでよくもったものだと、しみじみ思う。

目の前のひとと何か少しでも会話をしたくて、誠一はだからそのようなことをぽつぽつと話した。
激しいはずの雨音は、橋の下ではひどく静かに響いている。
それはとても心地よかった。ここが死に場所なら悪くはないと、微熱の中の気だるい気分のなかで思ってすらいた。

「……死ぬのが怖くはないのですか」
暗闇に似た人がふいにそう問うてきたので、ほんの少しだけ考えてから誠一は頷いてみせた。
怖くはない。
それは本当だった。
彼にとって「死」はいつも隣合わせにあるものだったから、怖いという気分はとうの昔に消え去ってしまっていたのだ。
それはおかしいと人は言う。やせ我慢するなと人は言う。
もしくは強いね、とも。
けれどもそうでないことは誠一自身は知っていた。
タイムリミット付きの生は、なかなかに刺激的なのだろうと思う。
クラスメイト達が面白くないというひとつひとつの生活は、彼にとっては宝石のようであったし、些細なことで関わりあう人たちとの会話は耐え難いほど楽しかった。
期限付きであるからこそ、なにもかもが楽しく思えるのかもしれない。
だから誠一は心の底からこう言った。
「これが最後だとしても、あなたというかたとお話しできただけでも嬉しいです」
そういうと、目の前に人は悲しそうに目を伏せた。
暗く、禍々しく、人の恐怖を引き立てるような暗闇を持つくせに、その仕草はあきれるほどに人間くさかった。
「あなたは死ぬのが怖いのですか? 」
思わずそう尋ねると、目の前の人はちいさな声で答えた。
「ええ。怖かった、です」
そのことばは過去形だった。
だからこの目の前の人はやはりもう「死んでいる」ひとなのだとわかった。
「とても怖かった。だけれど、そう思えたのも最後の最後です。ちらりと自分の意識が戻って、それでタケノウチさんの言葉を思い出した。それが生への未練になったのでしょう。だからとたんに怖くなった」
だけど、それまでは怖くなかったのです。そのひとは小さく続けた。自分もいつ死んでもおかしくない状況でしたから。
だから。
「だから、貴方の言葉もわかるような気がします」

雨はさらさらと降り続ける。
しばらくその音をぼんやりと聞いていた誠一は、やがてふふ、と笑みを零した。
「わかると言ってもらえて嬉しいです」
「……」
「そう言ってもらえたのは、はじめてです。誰にも、わかってもらえなかったから」
「……そう、ですか」
「はい」
暗闇のひとは静かだった。
その姿はひどく禍々しいのに、ひどくひどく悲しげにも見えて、それに壊れかけの心臓がずくずくと疼いた。

――ああ。ぼくはこの人と。


「誰かと関わると、欲がでてくるものですねえ」
誠一はぽつりとつぶやいた。
自分の命はもうわずかにしか残されていない。それなのにその欲はむくむくとわきあがってきていた。
欲は、未練だ。
生に執着するものはかならず欲を持っている。
「人というものは、ほんとうに欲深い」


――このひとと、もう少しいっしょに居たい。



橋の下で出会いのあと、誠一は暗闇の人と友達になることができた。
何度も橋の下に出かけては、たくさんの話をする。
部屋に何度も招いたが、彼は頑なに首を縦には振らなかった。
自分は「厄病神」というやつなのです。
何度目かの誘いの後、彼は言った。

これまでもいくつかの家を不幸にしてきました。ここで目覚めた後、途方にくれていたぼくは寂しさのあまり、或るしあわせそうな家族に憑きました。だれでもいい。しあわせなひとの側にいたかったんです。けれどすぐにその家族は不幸になってしまった。ご主人の会社は倒産して、一家離散です。彼は自殺をしようとして、生死のはざまでぼくの姿をみました。そのかたの発する呪いの言葉に耐え切れずにぼくは逃げ出した。けれどやはり寂しくて、ほかの家族のところに憑いて……。結果は、同じようなものでした。当たり前です。ぼくは、災厄したもたらさない存在なのですから。

だから、と彼は続けた。
もう誰のところにもいかないと決めたのです。もう誰にも迷惑はかけたくない。もう、嫌なのです。
……ぼくという存在に死はない。だけれどいつか消えてなくなることを信じて、ここにずっと居ると、決めたのです。

暗闇の人は淡々とそういったが、誠一にはその傷跡が目に見えるかのように思えた。
まだ乾ききっていないそこからは新たな血がじくじくと流れ出している。

だから誠一は言った。

「それなら、ぼくのところに来てください」

目を見開く人に向かって誠一は笑ってみせる。

「どうせぼくには何もありません。家族も、お金も。命だってあと少しです。ならばせめて、少しの間でも友達と一緒に居たいのです」




「誠一、大丈夫ですか」
いまやすっかり馴染んだ声に、誠一は瞼を開けた。薄暗い部屋の中、あいかわらず禍々しいほどの「暗闇」が彼を見下ろしていた。
「……根倉さん。ここは……」
「病院です。覚えていますか。突風で落ちてきた看板から人を助けようとして、それでぶつかって……」
「ああ、覚えています。……美幸さんは? 」
「ここに」
そういうと暗闇は、自分の背中で眠っている少女を指し示した。14歳になる誠一の娘は、いまや「根倉」という名前を得た男のマントをにぎりしめてぐうぐうと眠っている。その頬に涙のあとがくっきりと残っているのを認めて、誠一はなんとか動く左手でその頭をそうっと撫でた。
「さきほどまで大変でした。ずっと泣きじゃくっていて……」
「そう。それは申し訳ありません……。ご迷惑をおかけしましたね……」
そういうと根倉は首を横に振った。そうしてただでさえ顔色の悪い顔を、さらに蒼ざめさせる。
「い、いえ、そんな。……だって、僕のせいでもあるのですから……」


暗闇の人が誠一と住み始めて15年が経つ。
本人の言ったように災厄は降りかかってきたけれど、誠一はそれにはまったく構わなかった。命の期限のそのときまで、災厄とひきかえに友人を得ることができるならかまわない。そう思っていたのだ。
けれど誠一はまだ生きていた。
不思議なもので、災厄の神がこの家に来てから彼の病状の進行はぴたりと動きを止めたのだ。
「なにかをしてくださったのですか? 」
そう尋ねるもとうの本人は困ったように首を振る。だから、この不思議は誰にもわからないまま、それでも誠一はこの世に留まることができていた。


いつか、そのような不思議な現象に興味を持っている青年と交わした会話が蘇る。
コンドウと名乗った青年は、誠一の話を聞いてしばらくううんと唸っていたが、やがてそのふっくらとした両手をぽんと打った。

「人の運と言うものは、誰もが一定量で定められていると聞いたことがあります」
「運……ですか」
「はい。もしも本当に疫病神というものが存在するのなら、それがあてはまるのかもしれない」
「……? 」
「人の運は決められている。だから誰にも、神様にさえ運を増えたり減らしたりできはしない。ただ、「その人が持つ運」を「何時使うか」を決めることができるのではないかと」
「……それは」
「はい。誠一さんの不治の病が治ったのも、もしかしてこれから先の誠一さんの運をごっそり前借りしているからなのではないかと。だから、はためには不運が舞い込んでいるように見えるのでは、と。……あくまでひとつの仮説ですが」
そういってコンドウ青年はひとさしゆびをたてた。
「貧乏神のむかしばなしを聞いたことはないですか? 家に住み着いた貧乏神を追い返さず、手厚くあつかった正直者の夫婦がいたんです。その夫婦は正直者でまっとうに暮らしていた。けれど貧乏神がいるのでけっして裕福にはならない。それでも3人はつつましくも仲良く暮らしていたそうです。貧乏神も交えてね。その善い行いを見た天の神が、そこに福の神をつかわした。もちろん福の神は貧乏神を追い出そうとします。けれど、その夫婦は元々住んでいた貧乏神のことが好きだったんですね。だからなんと、福の神のほうを追い出してしまうのです。貧乏神は嬉しさに泣き出してしまいます。そしてそこで不思議なことが起こりました。なんと貧乏神は福の神に変貌し、それからは夫婦に幸運を与え続けたそうです」
「……」
「反対のお話もあります。座敷童子を丁重に迎えた家は栄える。けれど、それを追い出した途端にその家は落ちぶれてしまうんです。神やあやかしに、「なにか」を与え続けるだけの存在なんてものはいない。少なくとも、神話や昔話で僕は聞いたことがありません」


あくまでひとつの仮説ですよ。
そう何度も言ってコンドウ青年は笑った。


誠一は困ったように佇んでいる暗闇の人を見上げる。白い病室の中、真っ黒な彼は異質な気配を余計に放っているようにも見える。
「根倉さん」
「は、はい」
誠一は目を細めた。もしも本当にコンドウ青年の仮説が当っているとするならば、このひとは自分にとって大切な友人というだけでなく、命の恩人でもあることになる。
今の自分にはたくさんの欲がある。
だから少しでも長く生きていたい。
素直に、そう思えるのだから。

「……此処に居てくれて、ありがとうございます」

いろいろな思いを込めてそれを告げる。
しかし無自覚なかみさまは、ただ困ったように首を傾けるだけであった。



2011・8・7










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