「或る若社長の花嫁」

或る母親のはなし







馬鹿げた茶番も、これで終わり。







或る母親のはなし








麻子が妊娠を機に仕事を辞めたのは、夫の希望があったからだった。
夫はどうやら、「女性は家にあるべき」という今の時代では古いと思われかねない観念が拭えなかったらしい。
夫の母、いわゆる麻子の義母が専業主婦であったことも影響しているのだろう。
ずっと家に居て、夫と子供、果ては義父母や小姑の世話をする。
自分のことは二の次なのは当たり前。主婦業にきまった休日などないから、それこそ働き詰めなのが当たり前。
それでいて主婦は誰にも感謝されないのだ。何故ならそれが日本の歴史の中では、「当たり前」のことだったのだから。

麻子はそれを知っていたから、はじめは仕事を辞めることを拒んだ。
今まで通り家事は分担。育児だって分担していけばいいじゃない、そう言った。
けれども夫は違っていた。
今の時代、親が子供をしっかり育てていくべきなんだ。間違ったふうに育ててはいけない。だから親もできるだけ子供の側に居たほうがいいと思う。もちろん俺もできうる限り協力するから。
夫の言い分はたしかに正しいと思った。麻子だって生まれてくる子供のことは大切だ。それに夫は大企業に勤めている所謂エリートというやつだったので、共働きせずとも生活はしていけそうだった。
それに義母と義父も同じ意見だった。もっとも、昭和生まれのふたりにしてみれば、仕事などせずに長男である夫をしっかり支えていってほしいといった意味もあったのだろうけど。

だから麻子は仕事を辞めた。
正直、学生時代からやりたい仕事であったし、仕事自体も楽しかったから辞める時は辛かった。

けれども麻子は、この「分岐点」で「家族」を選んでしまった。


生まれてきた子はとても可愛い赤ちゃんだった。
親の欲目だけではないと思う。目は麻子に似ていてくるんと大きいし、少し小さな鼻や口は夫にそっくりだった。
目が合うとふにゃふにゃ笑う顔はとにかく愛らしかった。とてもよく笑う子で、何もない部屋の中でもにこにこと機嫌よさそうに笑っていた。
夜泣きがひどくて、夜には抱っこをしておかないと泣き止まないから寝不足になったりはしたけれど、それでも他の赤ちゃんよりもはるかに手のかからない子供だった。

夫も麻子も、この小さな天使のことを本当に愛していた。夫も早く帰って来ては、自分でお風呂に入れたがっていたほど子供のことを可愛がっていた。

それが変化したのは、子供が喋るようになってからだった。
はじめのうちはたどたどしい言葉がとても可愛かった。はじめて喋った言葉が「まま」だったので麻子はとても喜んだし、夫は拗ねて「ぱぱ」という言葉を覚えさせようと躍起になっていた。
やがてたくさん言葉を覚えた子供は、よくお喋りをするようになった。
麻子や夫。犬や猫。
そして、「目に見えないもの」にまでも。

麻子も夫も、はじめのうちはそれを微笑ましく見守っていた。
子供はちいさなころは神の子だというから、妖精でもみえるのかもしれないね。そういって笑っていた。

けれども子供の独り言はいつまで経っても治らなかった。
保育園に入ってからもそれは治らなかった。保育園でも何もない空間に向かってひとりで喋ったり、おともだちに「ここにひとがいるよ」と言っているらしい。そうしてそれを、園児の保護者たちが気味悪く思っているとのことだった。
保育園の先生にそう教えられ、麻子は子供を病院に連れて行くことにした。
なんでもそのような病気があるらしいと聞いた時には背筋が冷えた。
病院に行き、いろいろな検査をした。結果、脳疾患や遺伝性の病気ではないようだったけれども、精神的なものかもしれないと言われた。
なんらかの原因……たとえば寂しさなどで幻の友達を作り出しているのかもしれませんね。そう言われた。
麻子の目の前は、それで真っ暗になった。

精神的なもの。

麻子は悩んだ。
この子にストレスを与えてしまっていたのだろうか。育て方が悪かったのだろうか。寂しい思いをさせてしまったのだろうか。

誰も居ない場所に向かってお喋りをする以外は普通の子だった。いや、普通の子以上にやさしい子だったと思う。
麻子が熱を出して寝込んだときは、その小さな手で一生懸命タオルを絞って額にのせてくれたりもした。子供の力ではしっかり絞りきれていないタオルはべちゃべちゃだったけれども、その優しさに素直に胸が詰まったりもした。
とにかく、とにかく優しい子だった。

誰とお話しているの、と聞いたことがある。
子供はにこにこと教えてくれた。
おにいちゃん、おねえちゃん、おばあちゃん、おじいちゃん。そのときによって返答はさまざまだった。

……けれども。

「でもね、今日のおじいちゃんはお顔がはんぶんつぶれてるの。血もいっぱいでててね、すごくいたそうなんだよ。ねえまま、ぼくどうしたらいいかなあ」

麻子はこの言葉を聞いた時に、全身から血の気がざあっとひいていくのがわかった。
幻の友達だけならいい。けれどもそれに猟奇的なものが混ざってくるのは問題だと思ったのだ。
どうしてこうなったんだろうとぐるぐる悩む。
けれども恥ずかしくて、誰にも相談できなかった。
麻子がこの子を育ててきた。仕事を辞め、ずっと一緒に過ごしてきた。
だから言い逃れは出来ない。
育て方が悪かった。
子供に罪はない。
母親が、悪いのだ。
誰もが麻子を責めるだろう。
だってそれは、当たり前のことだったからだ。


子供の奇行はおさまらなった。
保育園の先生は溜息をつく。そうしていうのだ。園児の保護者さんたちから苦情がきています。おうちで、しっかり心のケアをしてあげてください。
麻子はその度に頭を下げた。
そのころには夫は仕事が忙しくなってしまっていて、相談しても鬱陶しそうにするだけですぐに寝室にひっこんでしまう日々が続いていた。
誰にも、頼れなかった。

麻子は悩んだ末に、子供にきちんと教えることにした。
そんな幻はいないのだということ。あなたにはパパもママもいるのだということ。だから寂しがる必要などないのだということ。
何度も、何度も。
何度も。

「でも、ここにいるよ」

けれども子供は頑固だった。
頑なに首を振って何もない空間にちいさな指を伸ばす。


「いるよ。ねえ、ママには見えないの? どうして? 」
「さびしそうにしてるの。おみずが欲しいって泣いてるの」
「血がね、いっぱいで痛そう。ぼくどうしたらいいの? 」

かわいそうだよ。そう言って子供は顔をくしゃりと歪ませる。
泣きたいのはこっちだ、と麻子は思った。
どうしてわかってくれないのだろう。それは幻で、幻覚なのに。
どうして。
どうして。

「いるわけが、ないでしょう! 」

だから麻子は「教えた」。

「そんなものはいないわ! だから誰にも見えないの! 見えるって言ってるあんたがおかしい、おかしいのよ! 」

麻子は泣きながら叫んだ。

どうしてわかってくれないの。
どうしてこうなってしまったの。
どうしてあたしを苦しめるの。
あんなに可愛がったのに。
仕事を辞めて。
自分を犠牲にして。
一生懸命育てたのに。
どうして。
どうして。


「気持ち、わるい……」

目の前の子供が目を瞠る。
麻子はその瞳をにらみつけた。
涙が零れる。
声が震える。
両手で顔を覆い、麻子は必死に叫んだ。


「あんたなんて、あんたなんて生まなければよかった……! 」


だってこのままでは、この子も私も生きていけない。




子供はそれから、萎縮するようになった。
家の中ではあまり喋らなくなり、常に麻子のようすを伺っている。
それでも「見える」ことを否定することはなかった。
麻子もそれを認めることだけはできなくて、だから子供はますます萎縮するようになってしまった。
「お前いい加減にしろよ。優次が可哀想だろう」
最近ではほとんど話をすることのなくなった夫が言ってきたときに麻子は笑ってしまった。
可哀想。
可哀想というならもう少し育児を手伝ってくれたらいいのに。
結局は口だけでなにもしようとしないくせに。
そういうと夫はうんざりとした視線を向けた。

「俺は仕事が忙しいんだ。誰のおかげで食っていけると思ってる。お前は家に一日中いるんだから暇だろう。誰でもできる育児ぐらい、ちゃんとできないのか! 」



もううんざりだと思った。
もう知らない。
もう知るものか。


幼稚園でも、小学校でも優次は「見える」ことを否定はしなかった。
だから友達もほとんどできないようだった。
そして、それによって学校から電話がかかってくる。
謝ることにも頭を下げることにも慣れた。
けれども優次が悲しそうな顔をしながら謝ってくるのには慣れなかった。

お母さんごめんなさい。
ごめんなさい。
ちゃんとできなくてごめんなさい。

謝らなくてもいい。
ただ、「見える」ことさえなくなればいいのに。
そんな嘘さえつかなければ、自分達の家族はすべてうまくいくのに。
そう思うとうんざりした。
この子は、なにもわかっていない。


しかし優次が9歳になった頃、夫がひとりの青年を家に連れてきた。
やけに綺麗な顔をした20半ばであろう青年のことを、夫は青い顔で自分の会社の社長だと紹介した。
夫の会社は大企業の中でもトップクラスのものである。その社長が他界し、今はその息子がグループごと継いでいるということは麻子も新聞を見て知っていた。
そんな人がうちに何のようだろう。
呆然としていると若社長は優次を見て言った。
きみの力を、貸して欲しいと。


麻子ははじめから反対していた。
優次の「霊感」を、「見える力」を肯定し、利用するなんてとんでもないと反対した。
それでは優次はいつまでたっても「そんなものはないのだ」ということを理解できない。病気が、妄想がなおらない。
けれども夫は首を振った。
「俺だってそんなものはないのだと思っている。だけど相手は社長なんだ。断れるわけがないだろう」
「でも」
「仕事がなくなってどうやって食っていくんだ。現実を見ろ。それに」
優次の力を貸すにあたって若社長が提示した金額と、昇進のことを夫は口にした。
「どうせ金持ちのボンボンのただの道楽だろう。すぐに飽きる。少しの間だけだ」
夫のその言葉に麻子は口をつぐんだ。


少しの間。
少しの間だけだ。


それから優次は目に見えて明るくなった。家ではあいかわらずあまり喋らなかったが、いつも楽しそうにしている。
それを見て麻子の心はどんどん重くなっていった。
これではいけない。優次の病気は治らない。
苛々としながらもそれでも若社長のところに優次を行かせるのをやめさせるわけにはいかなかった。


―しかし。



「ええ。では、失礼します」


その電話を切って、麻子は堪えきれずに微笑んだ。
ああ、よかった。
これで優次は解放される。
これで病気も少しはよくなるかもしれない。
だって、幻など存在しない。
それを肯定する人もただのひとりもいない。
だから。


「……馬鹿げた茶番もこれで終わり……」


くすくすと洩れる笑い声が、秋の夕日のさす部屋の中、がらんと響いていた。





2011・7・24










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