或る少年少女の空論 |
変わらないものは、ありますか。
或る少年少女の空論
「こんにちはーっ! 桜井さまいますかあーっ? 」 その日黒門美幸が桜井家を訪れたのは、すでに夕陽も沈みかけている時間だった。 日課にしている新聞配達も終わり、その足ですっかり馴染んだ玄関の扉を開けた美幸は、そこでしょんぼりと座り込んでいる優次をみつけてきょとんとした。 「わ、びっくりした。なにしてんの優次」 「……美幸さん……」 家に帰るところだったのだろう。黒いランドセルを背負い靴を履いた優次は美幸を見上げてその瞼をこすった。美幸はぎょっとする。 「な、なに、何があったの? またレンとかいう奴にいじめられたの!?」 この小学4年生の男の子はいわゆる霊感というものがあり、そのために学校でいじめにあっていることを美幸は知っていた。 かくいう美幸自身も小学校のときはいじめを受けていたことがある。 だからその寂しさも悲しさも知っていたし、なによりこの優しい男の子が辛い目にあっているのは他人事ながらも我慢できなかった。 しかし優次は慌てたようにその首を横に振った。 「い、いえ、違うんです……」 「じゃあどうしたのよ」 「……」 優次は戸惑ったように俯いた。さらさらとした少し長めの前髪がその目元を覆いかくす。 美幸は首をかしげた。 普段は人に気を使って自分の感情をさらけ出すことの無い子供なだけに、その様子は心配だった。 「なに? 桜井さまと喧嘩したの? ……って、靴がないってことは桜井さんまた来てないのか。今回は随分長いわねー。忙しいのかしら」 まあ、社長さんだもんね。 ぶつぶつとひとりごちていると、その言葉を聞いたのか優次が顔を上げた。 やはり泣きそうな顔をしている。 「……美幸さん。桜井さんが此処に、椿さんのところに来ないんです」 「ん? だから忙しいんでしょ。大人なんだし社長さんなんだし。どんなことをしてるのかは知らないけどきっととんでもなく忙しいのよ」 「……でも、桜井さんはこれまではどんなことがあっても3日に一回は顔を出してました。花束と、指輪を持って……」 「うん。椿さんにプロポーズしてるのよね。だからあんたは二人の通訳をしてあげてるんでしょ」 「……もう、二週間も姿をみせていないんです」 優次はそう言ってその大きな瞳を潤ませた。そうしてむき出しの膝の上に置いてある手をぎゅっと握る。 「ぼくのところにも連絡がないし、椿さんのところにも来てないし……桜井さん、椿さんと結婚することあきらめちゃったんでしょうか……? 」 美幸はうーんと頭をかいた。 自分はその桜井の嫁になろうと奮闘している身である。だからもしもその状況が本当であるなら、それは喜ぶべきところであった。 しかし何故だかちっとも嬉しくなかった。 目の前の弟のような男の子が悲しそうなのが可哀想ということもあるし、自分でも把握しきれない悲しい感情ももやもやと胸にわきあがってくるようでもあった。 「二週間、でしょ。たった二週間じゃない。忙しいのよ。きっとそうよ」 「……」 「だいたい本当に寂しいのは椿さんのほうなんじゃないの。男のあんたがしょんぼりしてどうすんのよ。そこはあんたが元気づけてあげなきゃなんないでしょ」 そういうと優次ははっと目を瞠った。そうして慌てたように瞼をこする。 「は、はい。そのとおりです」 「よろしい」 美幸はほっとした。自分でも思っている以上にこの家の主や優次のことに情が移っているようだった。 それに気づいて内心で苦笑する。けれどもすぐにまあいいやとも思った。好きな人が多いことが悪いことであるはずがない。 さて、と美幸は手を叩く。 「優次、あんた今から帰るの? 桜井さんが居ないってことはひとりできたんでしょ」 「はい」 「じゃあ送っていってあげる。あんたみたいなチビスケは危ないからね」 「え、でも……」 「ほら行くわよ。椿さーん! お邪魔しましたーっ! 」 見えない家の主に挨拶をし、優次をせきたてて外に出る。 すると陽はすっかり沈んでしまっていて、濃紺色の空が薄く遠く広がっていた。 あちこちで街灯が灯されはじめたのを見て美幸はふうと息を吐く。まだまだ息が白くは凍らないが、秋になってきたなあとちらと思った。 初秋の夜はひんやりしている。 その中をしばらく黙って歩いていたが、高層ビルの陰から白い月が現れたころに優次がぽつりとつぶやいた。 「美幸さんは、根倉さんのこと信じていますよね……」 「へ? 」 美幸は思わず声をあげて、優次の頭を見下ろした。顔を上げた優次の瞳は黒い。しかしそれが月の光を映しこみ、さざなみのようにかすかに揺れていた。 「根倉さんは、居ますよね……」 何かにすがるような声音に、美幸は唇を引き結んだ。優次が何を言いたいのかなんとなくわかったのだ。 「当たり前でしょう。居るわ。あたしの生まれたときからずっと居る。うざくて暗くて鬱陶しい疫病神よ」 それを聞くと優次はほんの少しだけその頬をゆるめる。 そうして少年はするりと続けた。 「……根倉さんのこと、好きですよね」 「……!え、な、あんた何言って……」 「変わりませんよね。ずっと、そういう気持ちってありますよね」 思わずぎょっとした美幸だったが、優次の意図するところを理解して口をつぐんだ。 そうして思った。 この子は可哀想だなあ、と。 親にも疎まれ、クラスメイトにも疎まれて。 これまで居場所なんてなかったに違いない。 けれども自分に嘘をつくことはできなくて、だからこそひとりで自分に怯えながら生きてきたのだろう。 それを、桜井と椿が救ったのだ。 優次がふたりを助けていたのではない。手を貸すことによって自分の存在を肯定され、そうして守ってもらっていたのだろう。 そうして今、その根源が揺るごうとしている。 だから怖くてならないのだ。 美幸は優次の前にしゃがみこむと、その泣き出す寸前で必死に我慢をしている瞳を覗き込んだ。 「……誰にもいわないでね」 「は、はい……」 「あたしねえ、暗いし鬱陶しいけど根倉のこと好きよ」 「はい……」 「子供の頃からずっとね。ちいさいころなんて、プロポーズだってしたことあるのよ」 「え」 「困ってたけどね」 それは随分昔のことだった。おそらく美幸は4歳か5歳の頃だったと思う。 幼稚園で「およめさん」の話がでてきたのだ。だから家に帰ってその話をしていた。 当時の美幸が一番好きだったのはふたり居た。それが父親である黒門誠一であり、あとの一人は根倉だった。 「あたしおとうさんとお兄ちゃんのお嫁さんになる! 」 そう言った美幸は、しかしあっさりと誠一にはふられてしまった。 「美幸さんごめんなさい。僕はね、美幸さんのお母さんをお嫁さんにしたいんです」 「な、なんと! 」 があんとショックを受けている美幸を前に、誠一はにっこりと微笑んだ。 「でもほら、美幸さんにはお兄ちゃんが居るでしょう? 」 矛先を向けられた根倉はぎょっとした顔をする。いつも白い顔をさらに蒼ざめさせて表情を強張らせた。 「せ、誠一、また無茶なことを……」 「どうして無茶と決め付けるんですか? 」 「無茶に決まってます。そんないい加減なことを……」 「……おにいちゃんもみゆきは駄目なの? 」 美幸は根倉の顔を見上げて尋ねた。 「きらいなの? 」 「い、いえそうではなくてですね……」 「なら好きなの? 」 「あ、う。す、好きですけど、でも結婚とかはですね、僕と美幸さんでは出来るわけが……」 「……」 美幸はその場にぺたりと座り込んだ。そうしてそのまま顔をくしゃりとさせる。 「ふえ……お、おにいちゃんにもふられた……もうだめだ。みゆきは「いかずごけ」になっちゃう……うわーん」 「ああ……根倉さん、僕のかわいい娘を泣かせないで下さいよ」 「え、ぼ、ぼくの所為……? 」 「はい。美幸さんが頑張ってプロポーズをしたのに、その気持ちだけをもてあそんで結婚はしないなんてどんな悪行ですか」 「え、ええー……」 「うわーん! みゆきはもてあそばれた! きずものにされたよう。うわーん! 」 「ええええ!? ちょっ……」 そのときの根倉の困り果てたようすを思い出して、美幸はくすくすと笑った。 目の前の優次の年齢の頃には父親のことで追い出そうともしたこともあるけれど。 それでも。 「だけどねえ、ずうっと好きよ。一緒に居たいって普通に思うの。家族だもん。……悔しいからぜったいに本人には言ってやんないけど。大事なのには変わりがないわ」 「……」 「桜井さんだってきっとそうよ。大丈夫よ。あの変態社長、あたしの魅力にもちっともなびかないんだもの。ずっと椿さんひとすじなんだから」 「……はい」 優次がようやくかすかだが微笑んだ。 そうして美幸に向かってちいさな頭を下げる。 「ありがとう、ございます……」 その拍子に潤んだ瞳からひとつぶ水滴が零れ出たが、美幸は少年の名誉の為にみていないことにした。 2011・7・17
或る少年少女の空論
或るシリーズへ戻る ・・・・・・・・・・ |