「或る若社長の花嫁」

或るはじまりの雨音






雨の音が強い。

朝方から降り続いている雨は一向に収まることなく、今も天から降り注いでいる。
粒のひとつひとつが大きな雨で、屋根を、雨どいを叩く音はがらんとした屋敷に強く響いていた。

椿はひとり、座敷に座ってその音を聞いていた。
とうに陽の落ちた刻限、しかも曇天の空は暗い。
ひとつの灯りもない室内はゆるりとした闇を住まわせているが、あやかしである椿にとって、すでにそれは恐ろしいものではなかった。
闇の中響く雨音は激しく強い。
しかしそれは決して五月蝿いものではなく、むしろ心地よい静寂にも似ていた。

雨粒はすべての音を包み込み、そうして地に返していく。




或るはじまりの雨音






天の気はいつになっても人には操れない。
椿はふとそう思い、そうして唇のはしをほころばせた。

長く存在してきた年月、ひとが随分といろいろなものを操れるようになってきたのを椿は見てきた。
とくにこの桜井家には財があったから、金さえあればほとんどのものは叶えられてきたと言ってもよい。
けれど天の気だけは金の力では操れない。
きまぐれで残虐な、それでいて優しい神の姿そのものだと椿は思う。



雨の夜、つらつらとそんなことを考えていると、ふいに馴染んだ気配が椿の琴線にひっかかった。

「……正美? 」

雨の音で外からはなにも聞こえない。しかし椿は立ち上がると、玄関に駆けていった。
同時に閉じられていた玄関の鍵が開き、全身からしずくを滴らせた正美が入ってきた。

「正美、傘はどうした」

聞こえないとわかっていつつも問いかける。それほど青年の姿はひどいものだったのだ。高級そうなスーツも雨のせいですっかり変色してしまっている。くせのある髪は白い顔にはりついていた。髪のさきやら服の裾からは雫がぱたぱたと落ちて、磨かれた大理石のうえにちいさな水溜りをつくっていた。

「風邪をひくだろう。はやく身体を拭かんか」

やや叱り付ける様な口調になったのは青年の顔が青白くみえたからだった。タオルを持ってきて頭を拭いてやりたかったが、椿の行動は結果を含めてすべて「大人」の目には認識できないようになっている。だからその場に立って、やきもきと聞こえない声をかける意外になかった。

対する正美は落ち着いているようだった。顔にはりついた髪をかきあげ、ぐっしょり濡れてしまっている背広を脱ぐ。そうして暗いままの玄関をそっと一瞥した。

「……こんばんは、椿さん」

そうして小さく頭を下げる。その瞳が一瞬椿をとらえたような気がして、椿は身体を強張らせた。
もちろん見えていないことはわかっている。こちらを見ているようでやはり視線はちっとも合うことはない。
けれどまるで見えているかのように正美は続けた。
まるで、椿の言葉さえもわかっているかのように。

「……大丈夫。濡れただけです」

そうして彼は頬をゆるめた。心配している椿のことを見通したかのようにやさしく笑む。

「相変わらず椿さんは、心配性だ」

椿は口をつぐんだ。ぎゅっと胸の奥が引き絞られるように痛む。
見えていない。聞こえていない。
存在を認識できない。
それなのにそのふりをする正美を見るたびに、かなしいような嬉しいような、ひどく切ない気分になる。
正美は灯りもつけず、そうして玄関から家にあがろうともしなかった。
おそらくは椿を濡らしたくないのだろう。椿は正美の考えを悟って哀しくなった。
わたしのことなどどうでもよいのに。近づかれて濡れても、どうせあやかしは風邪などひかないのだ。ひとではないのだから当たり前のことだった。
それなのに正美はそうとは思っていない。
いや、思っていないのではなくあくまで椿をひととして扱いたいのだ。
それは子供の頃からの正美を見ていればわかっていた。
ずっと、このこどもはそうしてきたのだから。

正美は首をぐるりと回して静かに玄関を一瞥する。そうしてぽつりとつぶやいた。

「……暗いな」

ならば電気をつければいいのに。
椿は思ったが、しかし正美は電気をつけはしなかった。
ぱたぱたと雫を滴らせたまま、玄関に立ち続けている。
冷たいはずなのにその表情は穏やかだった。

「正美……? 」

椿は眉をひそめた。
微妙に違う雰囲気に気づいたのは椿だからこそだろう。
この子供に出会って二十年以上。馬鹿のようにこの家に通ってきた子供のことを、椿もずっとみつめ続けてきた。

「なにがあった、正美? 」

子供の―今は青年となった正美の髪から流れ出た水滴は、穏やかな表情を崩さない頬をたどって乾いた大理石に零れている。しんとした静寂の中、雨の音だけがすべてを包んで闇に落ちていた。

「正美……」

静かで、穏やかな時間だった。
求婚も口説き文句も口にしない正美は本当に静かで、細雨にも似ている。
それはいつもなら心地よいことのはずなのに、けれども椿は落ち着かなかった。
何かが正美にあったのだ。それだけはわかる。
しかしそれが何なのかわからず、答えを得ることもできない。
だから椿は正美から零れる水滴を見ていた。

どのくらい時間が経ったのだろう。
やがて正美はゆっくりと頭を下げた。
そうして挙げた瞳にはみたこともないような光を宿していた。
強いそれをたたえたまま正美は笑う。


そうして静かに踵を返すとこの家を出て行った。
振り返る、こともなく。




それから正美は、この家に顔をみせなくなった





2011・7・10










或るはじまりの雨音







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