「或る若社長の花嫁」

或る尊き日の贈り物






「有名な技師の特注だ。これからもしっかり練習に励むんだぞ」
そう言って父親から送られたのはグランドピアノだった。突然部屋の一室に運び込まれたそれは、普段使っているそれよりつやつやと輝いて見えた。
「ピアノの教師がお前のことを褒めていたぞ。才能があるとな」
「あ……ありがとうございます」
正美は慌てて頷いた。同時にさっと頬に血が昇る。
滅多に話すことのない父親から声をかけられただけでなく褒められるだなんて。この6歳の子供にとってはなによりも驚くべきことであり、そうして同時に信じられないくらい嬉しいことでもあったのだ。
「あの、おとうさん」
「なんだ」
「こんどピアノ発表会があるんです。だからぼく、頑張ります」
「そうか」
「あの、だから、おとうさん。よかったら見に来て……」
「まあ、どうしたの。これ」
そのときふいに聞こえた声に正美は振り返った。いつのまに居たのか、母親がグランドピアノのある部屋を覗き込んでいるのが見えた。
正美の胸はさらに弾んだ。父親と母親と同時に会えるなんて、ほんとうに久しぶりだったのだ。
「あ、おかあさん。あのね、おとうさんが新しいピアノを買ってくれたんです。それで、ぼく……」
「……凄く立派なピアノですこと。ああ、そうだったわね。誰かさんの新しいヒトは確かピアノの教師だったかしら」
「…………」
正美はきょとんと瞬いた。母親の言葉は顔をしかめている父親へ向けられている。目線こそ向けられていないがそれは明らかで、そうして何故だかたっぷりと棘が含まれているものだった。
「わかりやすいこと」
母親はそういうと身を翻して去っていった。強い香水の匂いだけがその場に残る。
いつも綺麗に着飾っている母親が、この家に居ることはほとんどない。
今日もどこかに出かけてしまうのだろうか。そう思っていると、今度は父親が何も言わずに歩いていってしまった。その歩きは足音が強くなるようなものだったので、いまの母親の言葉で、父親が気分を害したのだけはわかった。

ひとり残された正美は部屋に置かれているグランドピアノに近づいた。
とても綺麗で、ぴかぴかしている。鍵盤を叩いてみるとびっくりするほど綺麗な音が響いた。いままで使ってきたピアノとは比べ物にならない。正美の耳にもそれはわかった。
けれども不思議なことに、先ほどまであれほど嬉しかった気持ちはほとんど消えうせていた。
グランドピアノはさきほどと変わらずに目の前にある。
それなのに、今はそれを見るとひどく胸が冷たくなる感じがした。6歳の子供ではうまく言葉にあらわすことができなかったが、ここから逃げてしまいたいような、蹲って隠れてしまいたいような、そんな気分だった。

正美は俯く。
そのとき脳裏に浮かんだのは、ただひとりの人の姿だった。


……会いたいな。

素直に、そう思った。







或る尊き日の贈り物









突然やってきた子供を、椿はきょとんとした表情で出迎えた。
桜井家の別宅であるこの古びた屋敷には、正美の祖父が身の回りの世話をするものとともに住んでいる。
しかし今日は誰も居なかった。まだ現役として目を光らせている彼はこの一ヶ月ほど、海外に出張しているのである。
しかしだからこそ不思議だった。
祖父が居ない以上、その孫である正美が此処に来る道理がない。
しかも、こんな日の夜に。
「こんばんは、椿さん」
「うむ」
すでに日は沈んでいる。共についてきた者を下がらせ奥座敷にやってきた正美は、椿の姿を見て嬉しそうに微笑んだ。
はじめて会ったときは随分と可愛げのない子供だったが、今ではよく笑うようになったように思う。
正美はにこにことしたまま椿の前に来ると、その場にちょこんと座り込んだ。
「正美」
「はい」
素直に頷くこどもに向かって、椿は首を傾げて見せた。
「なにかあったのかの」
今日は12月24日。世間では「クリスマスイブ」と呼ばれている日だった。椿にとっては馴染みはないが、今時の子供にとっては大切な行事であるはずなのである。
その日にわざわざやってきたこどもには、もちろんわけがあるはずだった。
「なにって……」
けれども正美はきょとんとしている。不思議そうに首を捻り、そうしてふと思いついたようにさきほどあった出来事を話しだした。
すなわち彼の父親からグランドピアノをプレゼントされたこと。
そうして、そのあとに起こった出来事を。

「……そうか」
椿は静かに頷いた。
正美の両親の仲は良いとは言い難い。それは正美が生まれる前からのことで、椿とてその片鱗を見てきたので知っていた。互いの親同士が経済的な理由で決めた婚姻。形式上は夫婦となったふたりだが、それぞれが自分の人生を生きることを選んだ。だから、望まぬ婚姻によりうまれた正美に子供としての愛情を向けるものは皆無と言ってもよかった。
もちろん桜井家の跡取り息子としては大切にされている。しかしそれだけだった。
椿は目の前のちいさな子供をみやる。
ひどく、哀れに思えた。
それは正美が悲しそうなそぶりをしているからではなく、むしろその逆だったからだった。
この子供は生まれたときからその境遇で生きてきた。だから父親にも母親にも省みてもらえないのは「当たり前」だと思っている。そうして、その身に抱え込んだ目に見えない感情の存在をも認識できずにいるのだ。
「正美」
椿はそっと息を吐いた。
「……おぬしは、さびしいのじゃな」
「さびしい? 」
「そう。たぶん、家でおぬしが感じていた思いは、さびしいという感情じゃ。わかるかの? 」
正美はふるふると首を横に振る。栗色のくせ毛がふわふわと揺れて、ひどくあどけない印象を椿に与えた。

「……ひとは、誰にも必要とされていないと感じるとさびしくなるものなんじゃ」
「……」

正美は黙って椿を見つめている。
そのあどけない風情をみながら、椿はそっと自らの拳を握りこんだ。

―かわいそうに。

椿の力は万能ではない。座敷童子として「幸福」をもたらすはずの力は主に財政的なものが多かった。それが何故なのかはわからない。ほかの「座敷童子」と呼ばれる存在がそうであるのかすらわからなかった。
時折、「幸福」とはなんなのだろう。そう思うことがある。
寒さにおびえることもなく、飢えに苦しむこともない。あたたかな家があって、欲しいものもなんでも手に入る環境。
しかしそれでもこのこどもは「幸福」ではないように思えてならなかった。
クリスマスの夜にひとりで出かけても誰にも気にしてもらえない。誰にも必要とされていない。そうしてそれを無意識に悟っている。
寂しさを持たないならいい。しかしこの子供は寂しさという感情をしっかり内に抱え込んでいて、それでいてその感情を感じないようにしているのならば哀れなことだった。
自分は「幸福」を与えるはずの、「座敷童子」であるというのに。

椿はひとつ首を振る。
今まで人気の無い座敷の中はしんと冷えきっている。子供の吐息だけが白く流れていた。

「正美」
「はい」
「さびしいという感情は知っておいた方がいい。そういう感情は辛いものだろう? だからこそ、自分が経験して辛いことは他のものに与えてはならない。わかるかの? 」
「……はい」
「うむ。よい勉強になったな。上に立つものは他者の痛みを理解してこそ大きくなれる。それを覚えておくのじゃぞ」
「はい……」
ちいさな子供は難しい顔をして頷いた。はっきりとは理解していなくても、この子供はなかなかに聡い。いつかは理解してくれるだろう。そう思った。
椿は立ち上がる。
そうして子供の前に立ち、ふわりと微笑んで見せた。
「だけどな、これからは正美がさびしいと思う必要はない」
「え……」
椿はことさらゆっくりと言葉を紡いだ。
これが一番、今のこの子供に伝えたいこと。なによりも大切なことだった。
「お前を必要と思っている、わたしという存在が居るからな」

椿にとってこのこどもは愛しい存在だった。育ちゆえか少々偏屈なところもあるが、根は素直で、とても優しい子供であることも知っている。
このこどもを救うためになんとかしてやりたかったが、椿の姿は大人には見えない。だから、正美の両親を一喝してやることも、諫めてやることもできなかった。

―ならば、今の椿にできることはひとつしかない。

「わたしは正美のことが好きじゃ。正美が居ないとさびしい。居ればとても嬉しい。とても、とても必要としておる。だから、これからはおぬしがさびしいと思うことはない」

そうして手を伸ばした。
椿のちいさな腕では正美の身体をそのまま抱きしめてやることはできない。だから頭だけを抱え込む。そうして、ゆっくりと撫でてやった。
「よいな? 」
栗色のくせっ毛はふわふわとやわらかい。
それを愛しむように何度も撫でていると、やがて胸元で抱え込んでいる部分から、ちいさなちいさなすすり泣きが聞こえてきた。
それはこの子供がようやく「さびしい」という感情を理解してその胸を痛めているということだった。
だからせめてその痛みが少しでも和らぐようにとその頭を抱きしめる。
そうして祈った。
神にではない。
神には会ったことなどないし、居たとしてもそうそう願いなど叶えてくれるものではない。
だからただ無心に、時に向けて願った。


――どうか、この子供の未来が「幸福」でありますよう。





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桜井正美にとって、今日は大切な日だった。
クリスマスイブだからではない。プレゼントもイルミネーションも、12月に向けてことさら流れてくる恋の歌も、彼にとってはどうでもよいことだった。

ただひとつ。
彼女に「言葉」を貰った日だった。

彼女が彼に与えてくれた大切な言葉。
20年前。あのときの自分に、たったひとり。彼女だけが与えてくれた大切なもの。

それがあるから生きてこられた。
そう考えても良い程に大切なもの。




「こんにちは桜井さん! あれ、どうしたんですか。今日はなんだかすごくしあわせそうですねえ」


だからこう問われたならば、すぐに答えることが出来る。



「ええ。……とても」



――今も昔も。

彼女は彼に、確実に幸福をもたらしている。





2010・12・25










或る聖夜の話









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