「或る若社長の花嫁」続編

「或る青年の約束」




桜井正美は親に殴られたことなどない。



両親は子供に無関心な人間だった。
だから彼は随分長い間、人に殴られたことはおろか、叱られたことすらなかった。


そんな彼がはじめて「叱られた」のは5歳の時だ。
曽祖父の家に連れて行かれ、隠居している当主に挨拶をさせられた。その時だった。
正美少年が自分の曽祖父と会ったのはその時が初めてである。
しかし義務的に挨拶をしただけで、会話らしい会話を交わすことなく彼の役割は終わりを告げた。
曾孫の顔見せは単なる名目であり、両親にとっては曽祖父との話し合いの方が主要であったようだった。
だから役割の終わった少年は、直ぐにその古い屋敷の一室に通された。
彼はしばらく大人しく待っていたが、1時間もたつといい加減待つことに飽きてきた。
しかしここでは彼の我侭を聞いてくれる使用人もいない。
一緒に来た両親は、彼にとっては滅多に会わない「見ず知らずの怖い人」にすぎなかった。
だから彼らに我侭を言うわけにはいかず、彼は仕方なく立ち上がり庭に通じる襖を開けてみた。
太陽が燦燦と降り注ぐ庭は非常に美しかった。
彼の住んでいるところの庭とは植えてある植物にも違いがあり、そうして自然を切り取ったかのような雑多感がある。
それらはひどく美しく5歳の少年の瞳に映った。
彼は庭をよくみようとガラス戸を引きあけた。雨上がりの風がゆるく吹き込み、彼の髪を小さくそよがせる。
そうしてそこで彼は見た。
葉の硬い緑の樹木。背の低いその樹木にはぽつりぽつりと赤い花が咲いていた。
赤と緑。
その鮮やかな色彩の中にひとりの少女が立っていた。


年の頃は5つか6つ。
あどけない風情の少女だった。
赤い花を眺めているのだろう。
かすかにつま先だって顎をつんとあげている。
肌はまるで透き通るように白い。
闇を染め抜いたかのような艶やかな黒髪は、肩の辺りで静かに風になびいていた。
着ているものは淡い色の着物一枚きり。
洋装に慣れた彼にはそれがさらに珍しく、なぜか儚い幻のように彼の瞳に飛び込んできた。


彼は小さく息を飲んだ。
瞬く間に庭の美しい色合いは少女の色彩を際立たせるだけのものに変わっていく。
そうして彼の瞳は少女に釘付けにされたまま動かすことが出来なくなった。
心臓の音が高鳴り、耳の奥が奇妙な音を立てている。
何故だか目の前の少女が今にも消えてしまいそうに思えて、彼は慌てて口を開いた。
いつものような口調で。

「お、おまえ、だれだ」

その声に少女はくるりと振り向いた。
自分よりほんの少しばかり年上であろうその少女の顔は、彼の想像以上に愛らしく整っている。
その瞳は漆黒であり、どこか深く落ち着いた光を湛えていた。
少女は黙って彼を見つめている。
彼はさらに跳ね上がった心臓を抑えながら再度声をかけた。

「おい。おまえこんなとこで何をやってるんだ。ここはぼくのおじいさまの家なんだぞ。勝手に入ったのか」

少女の瞳はすうっと細められる。

その表情すら美しく、彼は思わず魅入ってしまった。
だから反応が遅れた。
少女は素早く縁側に登ると彼に向かって手を伸ばし、いきなりその拳を彼の脳天に打ち下ろしたのである。
がつんと鈍い音と共に衝撃が起こり、次いで痛みが襲ってきた。

「な…」

思わず呆然として少女を見ると、当人はしれっとした顔で彼を見下ろしていた。

「お主は無礼なことを言いおった。だから拳骨してやったんじゃ」
「ぶ、無礼…?」
「初めて会う相手に挨拶もしない。しかもお前呼ばわりだ。
加えていうなら態度が横柄すぎる。礼儀もろくに知らん子供のくせに、お主は何様のつもりだ」
「……」
彼はぽかんとした。
そんなこと、言われたこともなかったのだ。
そんな彼に少女は当然のように続けた。


「悪いことをすれば叱られるのは当たり前じゃ。だから私はお前を叱ってやった。
言っておくが叱る方が気力を使うんじゃぞ。せいぜい感謝するがよい」







それは思い出だった。

桜井正美という青年の中で、最も美しく、凄烈で、大切な思い出。
今も彼女の姿はあのときと変わらないと聞く。
だから今の彼は瞼を閉じる。
こうして瞼を閉じれば、彼女の姿をくっきりと思い出すことが出来た。

―彼女の姿が見えなくなった今でも。


「思えばあのときに、既に堕ちていたんでしょうね」
誰も居ないように見える部屋の中で桜井は口を開く。
「貴女は意図してはいなかったでしょうが、貴女に会うたびに僕は完全にやられていました」
楽しそうに。幸せそうに。
「…ああ、こんなことを言うと貴女はまた怒るんだろうな」
今日は彼女の言葉を伝えてくれる少年が居ない。
だから桜井は瞳を閉じたまま、その部屋の中に向かって思いを告げる。
「貴女を愛しています」
部屋の中の空気が揺れる。
少なくとも彼にはそう感じられた。
彼女は「居る」のだ。間違いなく「居る」。
彼女の姿が見えなくなって十数年。
随分と思い悩んだ末の結論は、今や彼の中では揺るぎ無いものになっていた。
「愛しています。誰よりも愛しています。だから…」
浮かぶのは誰よりも愛しい少女の面影。
美しく愛らしく、傲慢で説教臭くも誰よりも無邪気で。
そうして誰よりも……を望んでいる。
長い、長い時間。
飽くほどの年月を生きてきた一人の少女。
「だから、私は…」

彼は彼女を愛している。
故に。
それ故に彼は言う。
言葉は言霊。
呪いであり予見であり真実を呼び寄せる。
それを知っていながら彼は…その言葉を発するのだ。

「貴女を此処から…開放したいのです」





2009・7・19










或る青年の約束








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