「或る若社長の花嫁」

或る八月の話







男は顔を挙げた。
蝉の声に混じり、どこか遠くからサイレンの音が響いている。
ああ、と思った。
今日は、八月の十五日だ。
いつも篭っている押入れの襖を開ける。
その前の四畳半では、この家の四歳になる一人娘が座布団を枕に気持ち良さそうに眠っていた。
男はそうっと外に出る。物音のしないように畳を踏み、そうして隅にあるタオルケットを取って娘の身体にかけてやった。
そうして窓の外に広がる天を見上げる。
空は濃い青色に染まっていた。
その青に溶け込むように、サイレンの音は滲み、かすれて消え去っていく。

くっきりとした縁を描く雲の白さだけが、いかにも目に痛かった。





或る八月の話








美幸はふああ、とあくびを洩らした。
畳の上でころんと寝返ると身体の上のものがわきに落ちる気配がする。手探りでそれを抱きしめて、もう一度ころりと寝返った。
そのままうとうとともう一度眠ってしまいたかったのだが、なんだか喉が渇いている。
「うー……」
美幸は起き上がった。とろんとした瞳をこすり、ぼんやりと思う。
れいぞうこにはお父さんが麦茶を作っておいてくれている。それを飲もう。
そうして立ち上がろうとしたとき、黒くてひらひらとしたものが視界の端に飛び込んできた。
「あれえ……」
美幸はぱちぱちと瞬いた。そうして次の瞬間に思ったことは、めずらしいなあということだった。
「おにいちゃん……」
美幸の住むアパートの一室。その前には狭い庭のようなものがある。
それこそ人一人がやっと立っていられるほどの広さではあるのだが、その空間に立っているのは、美幸の家に住んでいる黒衣の男だったのだ。
夏だというのに暑苦しい黒い服。こちらに背を向けているので、いつもはおっている黒いマントが翻り、そのたびに黒いシルエットを大きく見せていた。
男は振り返らない。直立不動で立ったまま、ただ、空を眺めているように見えた。
美幸は喉が渇いているのも忘れて男の側に寄っていった。
美幸が「おにいちゃん」と呼んでいるこの男は、普通なら一日の大半は押入れの下段に入り込んでじっとしている。
それは美幸がものごころつく前から当たり前の光景だった。昼間の父親の不在で美幸が寂しさのあまりに泣いていたりすると出てきてくれるが、それでも部屋の中がやっと。部屋の外、太陽の下に出ることなんて滅多になかった。
だからこそ思ったのだ。お外に出てるなんて珍しいなあ、と。
美幸はぎしぎしと音のなる古びた縁側から庭におりる。そうしてぺたんこのサンダルをひっかけて、男の横に立った。とたんに夏の日差しが容赦なく降り注いでくる。
車の音や人の声は聞こえない。ただ、蝉の音が青い空の中で響いていた。
「おにいちゃん、なにしてるの? 」
美幸はかすかにわくわくしながら男の外套の裾をひっぱった。
だって、おにいちゃんがお外に出ているのだ。もしかしたらこの後、一緒に公園に行って遊んでくれるかもしれない。お散歩にいっしょに行ってくれるかもしれない。
しかし―男からの返答は無かった。美幸はたっぷり60を数えて待っていたが、男は背筋を伸ばしたままぴくりとも動かない。
美幸はぷうと膨れた。
「おにいちゃん」
マントの裾をひっぱる。それでも男が反応しないので、右手を掴もうと手を伸ばした。しかしその手は空を切る。きょとんとした美幸が上を見上げると、男は右手を顔のあたりにまで挙げ、その手を顔と垂直になるように額にあてていた。
漆黒の前髪から覗く左目はかたく閉じられている。
おまわりさんみたい。
美幸はそう思った。そう、たしかこれはけいれいというのだ。おまわりさんの挨拶。
ぽかんと見上げていると、ふいに男の左目から何かがこぼれ落ちた、ように見えた。
「!」
美幸は慌てた。涙。とっさにそう思った。
「おにいちゃん、どうしたの、おにいちゃん」
おにいちゃんが泣いている。
それは美幸にとって大きな衝撃だった。こんなこと初めてだった。
男はいつも暗い顔をしているし、悲しそうな顔をしている。けれども泣いたことは一度としてなかったのだ。
しかし美幸の声に、男は反応しなかった。背筋をぴんと伸ばし、ただ敬礼をしたままその場に立ち尽くしている。
美幸は顔をくしゃりとさせた。何故かだなんてわからない。ただ怖い、と思った。
頭上に広がる青い空。それが美幸の「おにいちゃん」を飲み込んで、どこかに連れ去ってしまうような気がしたのだ。
だから慌てて男の足にしがみついた。そのままズボンに顔を埋める。ひっく、と喉がなった。
だめ。だめだよ、おにいちゃんを連れて行かないで。
蝉の声に混じって、遠く何かの音が聞こえた。空をつきぬけて響いてくる。そうして空気に溶け込むように消えていく、それ。
美幸は足にしがみつく手に力を込める。ぽろぽろと涙が零れてきた。すると、恐怖のあまり出せなかった声が漸く出てきた。
「ふえ……」
一度泣き出すと堰を切ったかのように声はあふれ出す。だからわんわんと美幸は盛大に泣いた。蝉の声も、空を通る厳粛な音をも掻き消すかのように。
するとすぐに頭上から気弱そうな、けれども驚いたかのような声が降ってきた。
「あれ、ユ、ユキさん……ど、どうしたんですか、そんなところで」
「ふえええ……」
男が腰をかがめたので、美幸はその首っ玉にかじりつくことができた。力いっぱい抱きつくと、耳元で男のさらに慌てたような声が聞こえてくる。
「あの、ユキさん……? 」
「ふえ、う、うわああん」
泣きじゃくる子供をもてあましたのか、ようように男の手が美幸の身体に回される。そうして小さくその背をさすられた。
「どうしたんですか? 何処か、お怪我でも……?」
美幸は首を振る。男の肩口は案外広い。外套に包まれたそこに顔を押し付けると、思いのほか堅い、肉の感触がした。
「ユキさん……」
困りきった声はいつもの「おにいちゃん」のもの。美幸は間近にある男の顔を見る。そうして、前髪から覗く左目から何も零れていないことを見て不思議に思った。
「……? ユキさん? 」
涙も、涙の流れた後もそこには見られなかった。
「あれえ……? おにいちゃん、泣いてたのに……」
「え?」
「あれえ……? 」
首を傾げる美幸に、男は困ったように微笑を向ける。
「……ユキさん、僕はね泣けないんですよ。今日、彼らの為に、泣く資格などないから」
「でも……」
「だから大丈夫。泣いていません。でも……」
男は美幸の身体に手を回したまま立ち上がる。
かすかにその腕に力が篭るのを、美幸は感じた。
「ありがとうございます。僕を心配して……泣いてくださったんですね」

それに包まれたまま、美幸はほっと息を吐いた。
おにいちゃんが泣いていないのならそれでいいし、お空に連れて行かれないならそれでいい。
それに、滅多に抱っこなんてしてくれないお兄ちゃんが、お外で抱っこしてくれているのがすごく嬉しい。

「おにいちゃん」
「はい」
「おそら、いい天気だねえ」
「はい」
「きれいだねえ」
「……はい」


八月の空は限りなく青い。
その空の下、ふたつの存在はしっかりと寄り添ったまま、ひとつの影を地に描いていた。





2010・8・15










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