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或る幼馴染の話 |
頭上から饐えた匂いのする水が降ってきた。 外からは笑い声が聞こえてくる。心底面白そうに聞こえるのは真実なのに違いないだろう。 「出てこいよ優次」 「トイレにいつまで入ってんだよー」 「あ、だからこいついつもクセーんじゃねえ?」 「いえてるいえてる! 」 髪から滴る水からは匂いがする。それが雑巾をしぼったものであることに気づいてそっと息を吐いた。 今日の夕方は、学校帰りに椿のところに行く予定だった。 こんな姿を見られてしまったら、やさしい人たちをひどく心配させてしまうだろう。それだけが悲しかった。
或る幼馴染のはなし
優次の居るトイレは4年生の教室の並ぶ一番奥にある。 どこか薄暗いそこは、生徒の間で赤い服の子供の幽霊が出るともっぱらの噂だった。 そうしてその幽霊は本当に存在していた。 トイレの一番奥の個室。 日の差し込まないせいでいっそう暗く見える個室で膝を抱えて座り込んでいた。 赤い服ではなく汚れた運動着を着ていた。赤く見えるのは怪我をしているせいで、そこが痛いのだと言って泣いていた。 それに気づいたのは優次が4年生に進級してからのことだった。だから夕方になるとその個室に来て、出来うる限り話し相手になっていた。 ひとりは寂しい。 子供は自分が死んでいることも、どうして家に帰ることができないのかも覚えていないようだった。 覚えているのは死ぬ直前の出来事と感情。子供の場合は痛かったという強い感情と、楽しみにしていた運動会に出れないという悔やみにも似た思いだった。 強い感情に支配されて動けない。 今まで会った事のある幽霊もそういう人が多かったから、霊というものはそういうものかもしれなかった。 その子供は、今はもういなかった。 3日前に話した時を最後に、優次の前から消えてしまったのだ。 帰り際に手を振った時にはにこにこと笑っていたので多分「あちら」に行けたのだとは思う。 それでも一応覗いてみたところで、クラスメイトたちにその個室に閉じ込められてしまった。 その手際は周到で、おそらく彼らは優次がこのトイレによく来ているのを知っていて計画していたのであろうことが察せられた。 べちゃ、と塗れた雑巾が降ってきた。外から個室に放りこまれてくる雑巾はいずれも黒ずんで汚れている。どっと外で笑い声が起こった。 ついで激しくドアが音を立てる。衝撃が激しかったので、足で扉を蹴っているのだろうことが予測できた。 はじめは怖くて仕方なかったそれにも少しばかり慣れてしまった。 音も怒声も、嘲りも無視も。悲しくて仕方がなかったそれも、繰り返し行われると感覚が麻痺してしまうものなのかもしれない。 今ではその嵐が過ぎ去るのを待てばよいだけなのだということを、無意識のうちに学んでしまっていた。 クラスメイトの大半はこの「いじめ」を楽しんでいる。心底優次を嫌っているわけではない。 ただ「自分より格下のもの」が居ることが嬉しく、その存在を虐げることに喜びを見出しているように思えた。 いつだったか、近藤という桜井の友人に聞いたことがある。人間の祖先は群れることで生き延びてきた動物だった。 それゆえに上下関係があり、だからこそ群れは統一して行動できるのだ。全員が平等では誰も生き残れない。 そんなことをしていれば、群れはたちまち崩壊してしまう。だから皆、他のものよりも自分が強いことを誇示しようとする。自分より弱いものを支配しようとする。それは自然の摂理で、人間だって例外ではないのだと。 それを聞いて、優次の心はほんの少しだけ軽くなった。 それなら、いい。心底嫌われていないのなら、それならいいと思ったのだ。 「おい、そこの洗剤持って来い」 しかし、次いで聞こえてきた声に優次は思わず顔を挙げた。堂々とした、子供ながらに人を従わせることに慣れた綺麗な声。けれども優次が一番恐れている、心の底から優次を「嫌っている」声。 「レン、どうするんだ? 」 「優次がかわいそうじゃないか。だから洗ってやらないと」 くすりとレンが笑う気配。それと共に幾人かの生徒がさらに笑った。 「ああ、なるほど。そーだよなー。レンってやさしー」 「だろ? 」 声と共に今度は白い粉が降ってきた。あわてて瞳を閉じて息を止める。苦しくなって口を開くと、白い粉が喉に入り込んできて激しくむせてしまった。ようやく引き出せた優次の反応に、外の子供達がわっと歓声をあげた。 優次はレンのことが好きだった。今でも友達だと思っている。 だけどもレンはそうは思っていないことも知っていた。そうして、かつてそう思って欲しかったのも自分だった。 レンとはじめて会ったのは小学校1年生のことだった。 学校の帰り道。 電柱の影に隠れるようにして、ひとり泣いている子供をみつけたのがはじまりだった。 「どうしたの? 」 その子供は小さくて、幼稚園ぐらいに見えた。優次よりも小柄で、白い顔は涙でぐしゃぐしゃになっていた。 しゃっくりあげながら挙げる瞳の色は青みがかった灰色で、それにびっくりしたことを覚えている。 髪の色は稲穂のような色をしていた。顔立ちもどことなく外国めいていて、ながい睫がくっきりと縁取る瞳はとても可愛かった。 子供はひとつしゃっくりあげると、何かを優次に喋りかけた。しかし当の優次はきょとんとしてしまった。何を言っているのか、まったくわからなかったのだ。 「ええと、なあに? 」 眉をひそめて問いかけると子供の表情がみるみるうちに翳った。瞳にも新たな水が溢れ出る。ぽろぽろと零れる涙はふっくらとした頬を伝って流れていた。 優次は慌ててハンカチを出そうとしたが、しかしその日は家に忘れてしまっていた。仕方なく自分の袖で涙を拭いてやると、その動作に子供はびっくりしたようだった。 涙が一瞬でひっこんでしまったようだったので、そのことにほっとした。 「まいご、なのかなあ……」 そう思ったが、辺りには誰もいなかった。子供が再度何かを言ったがやはりわからない。外国の子なのかな、と思った。確かに外国めいた風貌をしている。喋る言葉も外国語なのかもしれなかった。 けれども子供の表情だけはわかった。心細そうな、それでいてまわりの全てに怯えているような、そんな顔だった。 「ええと、だいじょうぶだよ。ぼくがなんとかしてあげるから、ね? 」 優次の言葉も子供には伝わらないようだった。だからその頭を撫でて、にっこりしてみせた。せいぜいしっかりしたお兄ちゃんに見えるように。 子供は不安そうだったが、それでも優次の差し出した手に掴まった。 はじめは泣きべそをかいていた子供だったが、一緒に歩いていくうちにその涙は止まったようだった。 それでも優次の手にしっかりつかまって、縋るようにくっついてくる。言葉は通じないので、安心させるために時折その頭を撫でてあげた。 ようやく交番をみつけたときには、今度は優次の手を離したがらなかった。優次が帰ろうとすると泣きそうに瞳を潤ませる。 優次だって一緒に居てあげたかったが、とうに日はとっぷり暮れていた。早く帰らなければお母さんに叱られてしまう。 子供はやはり迷子だった。なんでもアメリカから引っ越してきたばかりで、日本語が喋れないのだという。 「名前はレンっていうそうだよ」 泣き出しそうな子供を見ながらお巡りさんが教えてくれた。 「きみの名前も知りたがってる」 だから優次も名前を教えた。すると子供は何度か口の中でぶつぶつと練習をしたようだった。 そうして最後には、頬に涙の跡を残しながらもにっこり笑って手を振ってくれた。 再会はすぐに訪れた。 クラスにレンが転入してきたとき、優次はびっくりして声が出なかった。同じ年とは思っていなかったのだ。 反対にレンは優次を見るなりぱっと花が咲くように笑ってかけよってきた。 それから優次とレンは急速に仲良くなった。 教室でも休み時間でも通学路でも放課後も。いつも、いつも一緒だった。 最初の印象が強かったのだろう。レンは優次を無条件に信頼してくれているようで、優次もそれが嬉しかった。 はじめはぎこちなかったレンの日本語も、めきめきと上達していった。 そうしてみるとレンはとても聡明な子供だということがわかった。だから話していても遊んでいても、本当に楽しくて面白かった。 1年、2年。 そうして小学3年生になったときに優次は気づいた。 レンが、自分以外のクラスメイトとあまり親しくしたがらないことに。 そうしてその理由もすぐにわかった。 その頃から、優次がいじめにあうようになっていたのだ。 幽霊が見えると言い、変な行動をする気味の悪い子供。その噂は保護者から保護者に伝わり、その空気は子供に簡単に感染する。 だから優次だけ遊びに誘われなかったり、嫌なことを言われたりするようになっていた。 それをかばってくれていたのがレンだった。何も言わない優次の代わりに怒り、そうして喧嘩をする。その頃にはレンの背はうんと伸びて優次より大きくなっていた。 「くそ、あいつら……」 悔しそうに地団太を踏むレンはとても優しい子供だった。優次は、レンが優次のことを大切に思ってくれていることを知っていたし、それはとても嬉しいことだとも思っている。 ―けれど。 「レンちゃん、もういいよ……」 「なにがいいんだよ! 」 レンはむっとしたように優次を見る。着ているTシャツの襟がぐしゃぐしゃに拠れて土まみれなのは、優次をからかってきた生徒と掴み合いの喧嘩をしたからだった。 「お前、悔しくないのかよ! だって本当に幽霊が見えるんだろ? 嘘じゃないんだろ? それなのに嘘つきよばわりされて、悔しくないのかよ」 優次は黙り込んだ。 「幽霊が見える」というのは言ってはならないことだった。親にも堅く言われている。 レンは優次のことを信じてくれているたったひとりの人間だった。 レンには幽霊は見えない。けれどもいつも一緒に居る優次の行動を、幽霊を見たり話したりする、はたから見れば奇妙に見えるであろうその行動までをもすべて信じてくれていた。 それはとても嬉しかった。心の支えともいっていい。そのくらい優次にとってはレンは大切な存在だった。 「みんな馬鹿なんだよ。優次が嘘をつくはずないのに。あいつら皆、だいっきらいだ」 レンは怒る。 優次の為に怒って、そうしてだんだんとクラスの中で孤立していっていた。 優次はそれを見るのが辛かった。 レンは優しくて大好きな友達だ。だからこそ自分以外に友達が居ないような状況にさせたくはなかった。 たくさんの友達とドッチボールをしたり、野球をしたりサッカーをしたり。 そういうことはとても楽しいことのはずだった。優次とふたりきりで遊ぶよりもずっと、楽しいことのはずなのだ。 だから優次は言った。 レンに。たったひとりの友達に。 「レンちゃん……」 「うん? なに? 」 「……もう友達で居るの、やめよう」 はじめのうちはレンは聞く耳をもたなかった。何を言ってるんだ、と不思議そうにしていた。 だから優次はレンを無視することにした。どんなに話しかけられても答えないし、目もあわせない。 それはとても辛いことだったが、今、ここで、きちんとレンと離れておくことこそがレンの為になると信じていた。 レンは困惑しているようだった。自分が何かしたのか、どうしてこんなことになったのか。悩んで、優次に謝ってきさえもした。 それでも優次が無視を続けているとやがて話しかけなくなった。寂しそうに優次を見る視線が、ただ悲しかった。 優次と離れてからのレンは、優次の思っていた通りにクラスの人気者になった。 もともと綺麗な容姿のうえに性格も明るくて頼りになる子供なのだ。 あっと言う間に友達も出来、楽しそうに遊んでいるようすを見ることも多くなっていた。 それでも優次には時折話しかけてくれていた。皆で遊ぼうと誘ってくれさえもした。 優次は答えなかった。 寂しかったけれど、それでも無視を続けていた。 やがてレンは優次に話しかけなくなった。 そうして変わりに、レン主導によるいじめがはじまった。 すでにクラスのリーダーとなっているレンに逆らうものはひとりとしていなかった。 そのころには優次に抱いていた感情はすべて、『彼女』の中で怒りと、嫌悪へ変化していたようだった。 「どうしたんだその格好は」 学校の前まで自家用車で迎えに来た桜井に問われて、体育服に着替えた優次は言葉を失った。 出来うる限り水のみ場で身体や髪も洗っては見たが、やはりおかしいのだろう。慌てて言い訳を考える。 「ええと、こ、転んで汚れちゃったんです。だからさっき着替えて……」 「いじめか?」 しかし桜井には通じなかった。鼻の頭に皺を寄せ、そうして運転席から降りようとする。 「ったく、どこのどいつだ。陰湿なことをするやつがいたものだな」 「さ、桜井さん、やめてください! 」 優次は慌てて桜井の背広の裾をひっぱった。桜井がむっとした顔を優次に向ける。 しかし大きく息を吐くと、大人しく運転席に座りなおしてくれた。 「……この間はなしていた、レンという女の子か」 「はい……」 ためらいつつも優次は素直に頷いた。 ついこの間この青年には、自分の境遇のことを話したばかりだったのだ。だから今更隠すこともなかった。 ―恥ずかしいし、心配をかけたくないという気持ちはあるのだが。 桜井は黙り込んだ。そうしてハンドルに手をかける。見るからに高級そうな自動車は音も立てずに走り出した。 「……お前はその子が好きなのか? 」 2つめの赤信号で停まった時に桜井が聞いてきた。優次は頷く。それだけは本当のことだった。 「はい。レンちゃんはともだちだから……」 「だからその子のためにわざと嫌われるようなことをしたわけか」 「……」 「自己犠牲というべきか思いやりというべきか、それがいいことなのかはわからんが……」 桜井は何やら考え込んでいるようだった。前方を見据えたまま、ぼそりとつぶやく。 「まあ、少しは、凄いと思う……」 信号が青に変わり、再び車は動き出した。 「俺は椿さん自身のことを考えたことなどなかった」 「そ、そんなこと……」 思わず優次は瞳を瞠る。咄嗟にそんなことはないと思った。この青年は誰よりも椿という女性のことを想っている。それだけは恋愛ごとに疎い優次にだってわかっていた。 しかし桜井は続ける。まるで自分に言い聞かせるような、そんな口調だった。 「愛して欲しい。結婚して欲しい。生涯共に居て欲しい。欲しい欲しいと求めているばかりだ」 「桜井さん……? 」 優次は隣に居る青年をみやった。こんな桜井は見たことがなかった。 いつだって自信に溢れて、椿への想いを貫こうとしているのに。 そうしてそれは、とてもすごいことなのに。 しかし桜井はぽつんと、考え込むようにつぶやいた。 「……彼女の本当の望みは、一体なんなのだろうな……」 2010・5・29
或る子供と子供のはなし
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