或る思いやりの話 |
西園寺小町は古くからの桜井の友人であるという。 時折ふらりとやってきて、奥座敷でごろごろしては帰っていくという不思議なお姉さんだった。 リコと同じフランス料理店でパティシェとして働いているらしく、その手土産は美味しいデザート類が多い。 そのためか、椿も彼女の来訪を楽しみにしているようだった。 もちろん小町は、「椿」の存在のことも知っている。 それどころか姿こそみえないものの、気配を感じ取ることはできるようだった。 聞けば小さな頃は結構な霊感があったのだという。 「なんでか知らないけど、大人になるにつれてだんだん消えてったのよね〜」 小町はのんきそうに教えてくれた。そうして優次を見て、その眠たげな瞳を笑みの形に細めた。 「ゆーじ君はどう? 霊感、消えて欲しい? 」 その質問に優次は答えられなかった。 そうして自問する。 もっと小さな頃は、それこそ桜井や椿に会う前ならすぐに頷いていたような気もする。 でも。 今は……果たしてどうなのだろう。
或る思いやりの話
「ゆーじくんって学校でいじめにあってるんだって〜?」 うららかな休日の昼下がり。 そんな時に、いきなり場の空気を読まない発言をしたのは眠たげな目をしたひとりの女性だった。 「こここ、小町さんっっ! 」 その言葉に慌てたのは、椿とトランプをしていた当の優次本人である。 持っていたカードをばらばらと落とし、そうして泣きそうな瞳で小町を見あげた。 「あ、あの、そういうことはあまり……」 「ん? なんで〜?」 小町は読みかけの雑誌を畳の上に置くと、いつもと同じ、どこか眠そうな顔で小首を傾げた。 「桜井だって椿さんだって知りたいんじゃない? 可愛い息子のことなんだからさ〜」 「む、息子……」 リコと優次は思わず唖然とする。当の椿は手にしていたカードを置き、そうして愛らしく微笑んだ。 「確かに気になるのじゃ」 「椿さん、なんて言ってる? 」 小町に椿の言葉を伝えると、ボブショートの黒髪が良く似合っている女性はにんまり笑った。 そうしてくるりと振り向き、持ってきたパソコンの前で仕事をしている桜井に声をかける。 「ね、桜井もそう思うでしょ〜? 」 優次もおどおどとそちらのほうに目線をやった。 この若社長は多忙を極めている。毎日とにかく時間がないようだったが、それでもなんとか暇を作っては椿に会いに来ているのだ。 そんな桜井に自分のことなどで貴重な時間を取らせたくはなかった。 だいたい桜井は優次のような息子がいる年齢ではない。 気を悪くする要素は充分にあった。 そうっと移した視線の先で、桜井が渋面を作っているのを見てさらに身が竦む。 「あ、あの、桜井さん、気にしないで下さ……」 あわてて言いかけた優次の言葉を、ほかでもない桜井が遮った。 「……息子? 」 「す、すみませ……」 「……息子」 「……え? 」 きょとんとする優次の前で、桜井は片手で顔を覆った。 「椿さんと俺の……」 「さ、桜井さん……? 」 「椿さんと俺の……ふ、ふふふふ」 「あ。桜井、鼻血出てる」 「あっ。ほ、本当です! だ、大丈夫ですか桜井さ……」 「うっわ〜。桜井、ヘンタイ気持ちわるーい! あははははは〜! 」 「こ、小町さん……」 「しかしお前、いじめに合ってるのか」 ようやく鼻血の止まった桜井が、頭を高くして寝転んだ状態まま聞いてきた。 「知らなかった」 「桜井は椿さんのこと以外には他人のことには興味ないもんねえ〜」 その反対側では小町が、ふらりとやってきたきなこ色の大きな猫と遊びながらにやにやしている。 「まあゆーじ君は少し別って感じだけど」 「……まあ、椿さんが気にかけているからな」 「はいはい」 ふくふくした猫の腹を撫でながら、小町が軽く言葉を受け流す。 さすがは古いつきあいであるだけあって、桜井の扱いには慣れているようだった。 優次は桜井の横に座ったまま困っていた。 自分の学校での話なんて、他の人が聞いても楽しくないだけだろうことはわかっている。 ふと思い出したのは、家庭訪問のときに教師から優次の学校での話をきかされた母親のことだった。 蒼白な顔で教師に頭を下げ続けていた母親。そうして教師が帰った瞬間に向けられた冷たい瞳。 どうしてあんたは普通にできないの。 簡単なことでしょう。 他の子みたいに普通にしていればいいだけじゃない。 なんなのあんたは。 どうしてよ。どうしてそうなったのよ。 どうして。 その瞳は優次に言葉を投げるごとに熱を帯び、焦点すら合わなくなっていく。 その様子はとても怖かった。身が震えるほど恐ろしかった。 母親が霊にとりつかれたから変貌したわけではないことはわかっている。だからこそ怖かった。 だけど優次は母親のことが大好きだった。 あまり家には帰ってこないけれど、父親のことだって大好きだった。 母親が怒るのも父親が帰って来ないのも。 自分がうまくできないから悪いのだ。 クラスの子たちのように出来ないから悪いのだ。 そうは思っていても、どうすれば「普通」になれるのかなんて分からなかった。 「優次」 ふいに小さなやわらかいものが頭の上に乗せられた。ついでぱふぱふと叩かれる。 瞳を挙げると、立ったままの椿が自分の頭に手を乗せているのが見えた。 「大丈夫か。顔色が優れんようじゃが」 「あ……だ、大丈夫、です……」 優次は慌てて頷いた。母親のことを考えると胸がどきどきしてきて、気分が悪くなってくる。 それは罪悪感を感じることだった。そういう風に自分が感じているということが、そんな自分が嫌だった。 椿は小首を傾げて自分を見つめている。 いつものことながら、椿の瞳は深い色を湛えているように見えた。 ゆったりとたくさんの水を蓄えている大きな大きな湖。底知れない深さをも持つそれにひどく似ている。 椿は幼い子供の姿だが、優次の想像も及ばないほどの長い年月を生きている。 そんな瞳にみつめられると、自分の中の嫌な気持ちまですべて見抜かれてしまいそうだった。 それが、凄く怖かった。 「あ、あの、大丈夫ですから……」 だから慌ててそういうと、目の前の椿が呆れたように溜息を吐いた。 「おぬしはほんに気を使う子供じゃの」 「あ、あの……」 「いや……子供であるのに早く大人にならねばならんかったんじゃな」 「……」 「正美なんぞもっと子供子供しておったぞ。もう少し甘えてみるがいい。わたしでも正美でも、誰でも良い」 「……で、でも」 「とくに正美、あいつはつんでれじゃから分かり難いが、おぬしのことを相当に心配しておる。そして、どうして心配するのかというとな……」 椿はそこで桜井に目を向けた。 そうしてやさしげにふっと笑う。 「あいつはあいつなりに、おぬしのことを可愛いと思うておるんじゃよ」 「ゆーじ君? 椿さんとはなしてるの〜? 」 小町の声に優次ははっとした。小町や桜井に椿の姿は見えない。 おそらくふたりから見れば優次は独り言を言っているように見えるのだろう。 だから慌てて頷いてみせた。 すると小町は優次の顔をみてにんまりした。 「何の話してたの? 顔が真っ赤だよ? 」 「え? 」 慌てて頬をさするとたしかにぽかぽかと熱かった。 するとその横で桜井が身体を起した。鼻に詰めていたちり紙を取り、そうして姿勢を正しながら優次をみつめる。 「おい、椿さんが俺の話をしていたのか? ま、まさか嫁になると承諾して下さったのか」 「……こやつは」 椿が呆れた声をあげる。そうしてぺしりと桜井の頭を叩いた。 立派な成人男性をはたく幼女。その姿は実に滑稽でそうして実に幸せそうだった。 思わず、笑みが零れてしまうほどに。 その日はたくさんのことを話した。 両親のこと。 学校でのこと。 友達のこと。 そして、レンのこと。 桜井も椿も、そうして小町とその膝の上に居る猫でさえも、優次の話を本気で聞いてくれているようだった。 一生懸命喋って、そうして疲れてしまったので昼寝までしてしまった。 話している途中から、何故だか勝手に涙まで出てきてしまったので、そのせいで余計に疲れたのかもしれなかった。 「こいつは……凄いやつだな」 眠る直前、桜井がぽつりとつぶやいたことだけは思えている。 そうしてその表情が、何かを思案するような真剣なものであったことも。 その時の昼寝の夢はよいものを見た。 母親と父親が居て、3人ででにこにこと笑っていた。 母親の手作りだという大きな大きなパンケーキを囲んで、ハチミツをかけるかシロップをかけるか それともいちごジャムにするかチョコレートソースにするかみんなで真剣に悩んでいる。 そんな、幸せな夢だった。 良い夢をみました。次の日にそういうと、椿はにっこりした。 「ああ。あのときは猫がいたからの、昔の夢か? 」 「猫……? 猫さんは昔の夢を運んでくれるんですか? 」 「あやつらは過去の出来事を夢に見る。陽の光にあたためられた過去を見るためによく眠る。 あれくらいの猫又になるとその夢を人に見せることだって造作もない」 「え、ね、猫又? 」 「気づいておらんかったのか。あれは六尾じゃぞ」 「え、えええええええ!? 」 「まあ気まぐれな奴じゃから、そなたへの夢は『とくべつさあびす』じゃったのだろうて」 そういって椿は優次を覗き込み、いっそう優しげに微笑んだ。 「良い夢か……おぬしもちゃんと愛されておったんじゃ。良かったな」 その言葉に頭のどこかにあった小さな箱が蓋を開けた。 ゆるゆるとその光景が浮かんでくる。 たしかにあの夢は、優次が小さい頃に本当にあった出来事だった。 だから優次は頷いた。 「……はい! 」 2010・5・22
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