「或る若社長の花嫁」

或る青春群像:後編









近藤貴史に霊感はない。
霊感はおろか、金縛りにさえあったこともなかった。

近藤貴史は本が好きだった。
自分の知らないことを知ることは楽しく、理解することはもっと楽しかった。
人体の構造。地球の起源。数の定理。
地球に多々存在する言葉の在り方。土地によって多彩な特徴の或る思想。
本にはたくさんのことが載っていた。
文字を覚えさえすれば、彼はそれらをすべて知ることが出来た。
知識を得ることは器に一滴一滴水を落とし込んでいくことに似ている。器に落とした雫は波紋を描いて水となり、自分にじんわりと染み込んでいく。
その感覚は実に楽しく、実に充実していた。
だから小さな頃から図書館に通いつめ、本という本を読み漁った。
それらをすべて読み終えてしまうと各国の本が読みたくなった。
だからその度にそれらの言葉を覚えてみた。
英語を覚えさえすればフランス語、中国語、ドイツ語などは実に簡単だった。構造が似ているのだ。そしてそれらは本当に単純で明快で、パズルを解くかのように面白いことだった。


そんな中、どうしてもわからないことがあった。
自分が見ているものと違うものを見ている人が存在しているということ。
世界にさまざまな形で、しかし共通してある世界の認識。
魂の存在。死後の世界。神や悪魔の伝承。


近藤貴史は、だからそれを知りたかった。
自分の知らないことを知ることは、彼にとっては得も言われぬ充足があるものだからだ。






或る青春の一幕:後編







「……あのさあ、小町」
「ん〜なに〜?」
「やっぱりさ、お前は帰ったほうがいいと思うんだけど」
「なんでよう。今日はオカルト研究会の合宿でしょ?あたしだって参加したいもん」
「いやいやいや、合宿っていってもおれと小町だけだからね。桜井はここには来れないとかいって帰っちゃったし」
「ふーん」
「いや、ふーんじゃなくてさ。つまりのところおれと二人で泊まるってのはアレだよ。嫁入り前の娘さんとしては良くないよ?」
「まあ平気だよ。近藤だし」
「え、なにそれ!? 」
「近藤だし」
「なんで二回言うの!? 」
近藤は思わず頭を抱えた。
この閑静な奥座敷の中には近藤と、そしてオカルト研究会の唯一の部員である小町しか居ない状況だった。
近藤としては座敷童子の居るというこの屋敷に一泊するにあたり、もちろん桜井も泊まるものだと思っていたのだが、直前になって「やっぱり俺は泊まれない」と帰ってしまったのだ。
困ったのは近藤である。
通常は桜井の祖父が住んでいる家だが、現在は祖父が出張中であるため無人であるらしい。
それはいい。むしろその方が調査する身としてはむしろ好都合だろう。
しかし問題がひとつだけあった。
何故だか付いてきた小町が泊まる気満々だったりするのである。
この無人の家で。
近藤とふたりきりで。
「うーん……」
「もう、近藤はしつこいなあ。親にも合宿って言ってきたから大丈夫だってば」
「うーん……」
「なによう。それともあたしに何かエロイことする気なの?」
「し、しないよ! 」
「ならいいじゃない〜」
ケロリと言い切る小町を前に、近藤は肩をがっくりと落としたのであった。



桜井の屋敷は広い。
随分と古い建物だが、ひとつひとつの造りはいかにも頑丈に、そうして見た目にも美しく建てられている。
座敷童子の居るという部屋は屋敷の奥、庭園に面した一角にあった。
そこに足を踏み入れた近藤は、そのあまりにも朴訥とした居間の様子に驚いてしまった。
掃除はきちんとされている。しかし。
「なんかふつうの部屋ねえ」
からりと襖を開けながらの小町の感想はあまりにも的確だった。
「こう、あれね。 田舎の古い家って感じ。お金持ちなのに質素ねえ」
小さな部屋の中にはただひとつ、古びた座布団だけがぽつねんと置かれている。
近藤は外の風を受けて気持ち良さそうに瞳を細めている少女に尋ねた。
「小町、ええと……聞いてもいいかな?」
その言葉に主語は無い。
しかしそれでも小町は近藤の問いの意味がわかったらしい。黒髪を揺らせて近藤のほうを振り返り、瞳を細める。
「いいよ?」
「……何か居る?」
小町はにっと笑った。


西園寺小町がオカルト研究会にやってきたのは入学してすぐ、4月のはじめのことだった。
「ねえ。あたし、幽霊が見えるっぽいの」
ぽかんとする近藤を前に、黒髪の少女はさらに続けた。
「あんたはどう思う?あたしは変かしら?それとも霊能力があるからすごいってもてはやしてくれんの?」


そのとき、近藤は自分がなんと答えたのかは覚えていない。
しかし小町にはその答えがお気に召したようだった。すぐさま部室に入り浸るようになり、何時の間にやら部員にもなっていた。とはいえ、研究会の活動には積極的ではなかった。
その理由はおぼろげながらわかってきた。
いつぞや、ちらりと小町が語ったことがある。子供の頃から幽霊を見ており、家族に言ったところ精神病院に連れて行かれそうになったことがあるとのことだった。子供の頃の彼女はたいそう傷ついたらしい。今はなんともないけどね、と小町はなんでもないことのように笑っていたが、だからこそ近藤は同好会の活動参加を強制することは控えていた。


だけども今回のこの「合宿」には意味がある。
少なくとも近藤はこの家に居るという座敷童子のことが知りたかった。知識的な意味でも、そうして少々変人だが、桜井と言う友人のためにも。
小町は空気を読もうとはしないが馬鹿ではない。
だからこの「合宿」の意味も理解しているはずだった。
いや、実際理解しているのだろう。小町は近藤の表情を見て、そうしてあっさりと答えた。
「そうだね、今はなんにも感じないし見えないなあ」
「そうか。……あのさ」
「もちろん協力するよ。あ、でも今度、赤坂のルルンシェのケーキを奢ってね」


家の中の写真を撮ってまわる。寸法を測り家の図面を作る。
調査と言っても一介の高校生である。
心霊現象が起こる原因として考えられる事柄はすべて調べてしまいたかったが、音振動の伝わり方や光の反射具合までは調査はできなかった。
「んー。やっぱり見えないねえ」
小町はお菓子を齧りながら言った。
「でもさ、座敷童子って子供にしか見えないんだよねえ。もしそういうのが本当に居たとしても、あたしには見えないんじゃないのかなあ」
確かに、と近藤はパソコンを開いたままうめいた。
座敷童子にまつわる伝承ではそうなっている。子供にしか視えない妖怪。所によっては精霊とも神とも言われているが、いずれも子供の前にしか姿を現さないことで一貫している。
もしも「座敷童子」という存在があるのだとしたら、桜井が会えなくなったのもそのせいなのかもしれなかった。
「うーん……」
唸っていると、小町がつぶやいた。
「残念。何か役に立ちたかったんだけどなあ」
「へ?」
近藤は思わずきょとんとした。出会って二年以上経つが、こんなに殊勝なことを言う小町には出会ったことが無かったのだ。
畳の上で寝転んでいる小町に向きなおる。そうしてその顔を覗き込んだ。
「何かあったの?」
すると小町はポテトチップスをくわえたまま起き上がった。そうしてこくりと頷く。
「うん。あのさ、あたしねえ、もうすぐ学校辞めようと思ってるの」
「へ?」
まさに寝耳に水だった。しかしすぐにその言葉の意味が脳に浸透していくのがわかった。
そう。小町はこういう少女だった。
だから冗談ではなく、本気なのだろうということもすぐにわかった。
小町は笑う。
「びっくりした?」
「うん」
「さびしい?」
「うん、まあね」
近藤は頷く。すると小町はひどく嬉しそうに笑った。
「んふ、ありがと」
「いや、感謝されることなんか言ってないけど……」
「そうでもないよー」
「まあ、うん。頑張れ」
そういうと小町はさらに嬉しそうにする。
「ありがと。近藤ならそういってくれると思ったんだ」
「あ、でも家出とかは駄目だよ。ちゃんと親御さんに言ってからじゃないと」
「ん。近藤ならそういうと思った」
「辞めてどうするんだい? 考えがあるんだろう?」
「うん。フランスに行こうと思って」
「フ、フランス? つてはあるの?」
「今こっそりバイトさせてもらってるとこのツテなんだけどね。そこで修行せてもらえそうなのよ」
近藤は頷いた。
小町の夢のことは知っていた。
西園寺という旧家の娘である彼女だが、小町の興味は常に別のところにあったのだ。
甘いものが好きで、そうしてそれを作るのも好きな彼女は、部室にやってきては嬉々として話していた。部室にわざわざオーブンを持ち込みそこで菓子類を作っていたのも、家では良い顔をされないからとちらりと零していた。
「そうかあ。良かったね」
そういうと小町はほんの少しだけ黙り込んで瞳をそらす。うったりとした眠たげに見える瞳を縁取る睫が意外に長いことに今更ながら気づいた。
小町は視線をそらしたまま、ぽつんとつぶやいた。
「近藤みたいにさ、やりたいことをやれるだけやるって凄いことだなあって思ったのよねえ」
「おれ?」
近藤はぽかんとした。
「そう。誰に何を言われようと、どう思われようと、近藤は自分のやりたいことをしてるじゃない」
「ああ、うん」
「クラスの女子に変態とかキモイとかオヤジとかオカルトオタクとか言われてもどこ吹く風って感じだもんね」
「え!? おれ、そんなこと言われてるの!? 」
「自分のやりたいことをやるために努力もしてるもんね。この学園の特待生になったのも、オカルト研究会で自由にしたかったからなんでしょ?」
近藤は頭をかいた。
確かにそうだった。公立の学校では同好会や部活動に制限が出る。しかしこの学園はそれらに対して寛大であることで有名だった。
「まあ、ねえ」
「アホだしキモイとは思うけど、すごいよねえ、それ」
「んん? な、なんだか褒められている気がしないんだけど」
「褒めてないよ。半分くらい馬鹿にしてるしー」
「おいおい」
がっくりと肩をおとしてみせると、小町はにっと笑みを浮かべる。
「桜井くんもさあ、多分あたしと同じなんだよねえ」
「桜井?」
「うん。桜井くんも近藤のことが羨ましいんじゃないかな。実はさ」
「……?」
近藤は首をかしげた。小町の言うことはまったく意味がわからなかったのだ。
桜井はなんでも持っている。羨ましいのはむしろ近藤の方で、桜井が自分のことをそう思っているなどとは考えがたかった。
「わかんないならいいよ」
近藤の表情を見て察したのだろう。小町はあっさりとそう言って笑った。



奥座敷は実に平和だった。
この屋敷はぐるりと庭に囲まれているので、外の喧騒は聞こえにくい。とはいえ静寂に包まれているというわけではなく、鳥の声や猫の声、木々が風にそよぐ音など、自然豊かな環境といってもよかった。
かつてこのあたりは農村だったらしい。現在は開発が進み、都市化が進んでいるがそのなごりはあるようだった。

コンビ二で買ってきた弁当で腹を満たし、そうして小町の持ってきた菓子をつまみながら座敷童子があらわれるのを待つ。
しかし桜井の言っていたとおり、座敷童子が好きだというかざぐるまを回してみたりわらべ歌を歌ってみたり将棋を指してみたりと、一見だらだらと遊んで過ごしているとあっと言う間に陽が暮れてしまった。
オレンジの色に彩られた奥座敷は綺麗だったが、くっきりとした影に縁取られていく夕闇はどこか物悲しい。
「もしも座敷童子が居るのなら」
思わず近藤はつぶやいた。
「ひとりっきりでこんなところにずっと居るのも、寂しいかもしれないねえ」
「近藤はやっぱ変だね」
小町がおてだまを投げながら不思議そうな声をあげる。
「幽霊とか否定的なくせに、そういうふうに感傷的なところもあるんだもん」
「おれは否定的じゃないってば。居て欲しいと思ってるよ。ただ、居て欲しいから科学的に立証したいだけで」
「はいはい」
「……昔話からすると、座敷童子は元は人間といわれてるんだ。だとしたら、そういう感情もあると思うけどなあ」
近藤には幽霊も妖怪もみえない。しかし想像することはできた。
もしもそういう存在が居たとして、人間と同じ感情と思考回路をもっているのならば―それは、結構辛いことなのではないだろうか、と。


夜になり、深夜になったが何も起こらなかった。電気系統にも異常はみられない。
ちなみに小町は21時ごろから爆睡してしまっている。すぐ近くに近藤がいるというのに、そんなことまったく気にしていない様子であった。
その状態に多少傷つきつつも近藤はひとり、パソコンに向かい合ったまま屋内のようすを確認していた。
そうして夜中の二時。桜井からメールが届いた。

「差し入れだ」
メールで言われるがままに屋敷の外に出た近藤を待っていたのか、桜井はおおきな紙袋をひとつ渡してきた。秋口とはいえ、さすがに夜は冷える。桜井はいかにも高級そうな上着を羽織ったまま、白い息を吐いていた。
「……収穫はあったか? 」
「残念ながら」
そう答えると桜井は小さく息を吐く。そうして踵を返そうとした。
「おい桜井。ここまで来たなら泊まっていけばいいじゃないか」
近藤は内心首を傾げていた。
桜井の本宅からここまでは結構な距離がある。こんな深夜では電車も走っていない。
わざわざタクシーで来たのだろうか。それとも……。
そこまで思ったところで桜井が首を横に振った。
「いや、俺はこの家にはもう来ないと言ってしまったんだ」
「は?」
「今年の正月明けに、彼女にそう言った。だからもうこの家には入れない」
「……お前、もしかして今までこの家の前にいたの?」
「何を……」
「タクシーで来たなら、帰りのことを考えて側で待たせておくだろ?その気配がないってことは、大分前にここに着いていたってことだろ? 」
「……」
桜井は自嘲するふうに笑った。かすかに疲れの見えるそれに、近藤は自分が正解をひきあてたのだと知る。
不器用な奴だなあと、近藤は思った。
世の中には素晴らしい女性が沢山居るはずだ。見えもしない、ましてや存在しているのかさえわからない座敷童子のことなど忘れてしまえば楽しい人生を過ごせるだろうにそうはしない。忘れようとするのに忘れられない。忘れようとしない。
それは馬鹿のように不器用で、愚かな行為であるように思えた。
「今日一日」
「うん?」
「今日一日、この家の前に居た。で、いろいろ考えてみた」
「なにをだい?」
近藤はクラスメイトの顔をみやった。桜井はその視線を受けて苦く笑う。
「前に西園寺が言ったことだ」
「……?」
桜井は息を吐き、そうして屋敷に目をやった。黒々とした闇に包まれた静寂の中、玄関に灯る明かりだけがあたたかく光っている。
その光を見ながら桜井はつぶやいた。
それは考えていることが思わず外に洩れたかのような、ぽつりとした声音。
「……俺は、ただ一緒に居たいんだな……」
その言葉こそが真実を示していた。




「小町、起きてたの?」
紙袋を抱えて部屋に戻ると、小町が布団の上に座り込んでいた。
髪には盛大に寝癖がついてしまっている。
しかしそれを気にした様子もなく、顎に手を当ててなにやら考え込んでいた。
「ほら、桜井から差し入れだって」
紙袋を差し出しながら座ろうとすると、小町は目を見開いて近藤を見上げてきた。
「桜井くんが居たの?」
「うん」
「いつから?」
「なんと朝からみたいだよ。屋敷の外にずっと居たみたいだ」
奥座敷の前に広がる庭。その塀の向こう側を目線で示しながら言うと、小町は何故だか納得のいったように頷いた。
「ああ、だからかあ……」
「なにが?」
「今ねえ、いたのよ。女の子」
近藤はぎょっとして紙袋を取り落とした。
「黒い髪に椿の花を挿した、すごく綺麗な女の子だった」
「それだ!」
近藤は立ち上がる。そうして左右を見渡した。
「で、どこ?」
「縁側で、外の方を悲しそうな顔でじっと見てたの。でももういないよ」
小町は淡々とつぶやく。そうしてはあと息を吐いた。
「ねえ、このことは桜井くんには言わないって約束してくれる?でないと教えない」
「へ?」
近藤はきょとんとした。小町の表情はひどく真剣で、それはひどくめずらしかった。
今日は珍しいことが沢山あるな。そう思いながら先を促す。
「なにがあったの?」
「桜井君にはね、自分は会わないほうがいいってさ。それがマサミの為なんだって、そういってた」
「……え?」
「自分は過去の亡霊にすぎないって。だからこの家には何もいない。だから何も言わないでくれって頼まれちゃった」
「……座敷童子が?」
「いや、それがねえ……」
小町は不思議そうに小首を傾げた。


「あたしが見たのは15、6の……あたしらと同じくらいの年の女の子だったんだよねえ……」





2010・5・8










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