「或る若社長の花嫁」

或るオレンジの音色







ぴーぷー
ぴーぷー


その日、車から降りた桜井は懐かしい音を耳にした。
それは単調な音をしていた。ピアノのように澄み渡るそれではない。
何故か子供を連想させるような拙い音は、桜井が今まさに入ろうとする屋敷の中から聞こえてきた。

「何をしている」
「あ、おかえりなさい桜井さん」
はたして奥座敷には優次がひとりで座っていた。
その目の前には古びた座布団が鎮座している。子供は桜井を見て嬉しそうに笑い、そうして膝の上の青い物体を示して見せた。
「ピアニカです。椿さんが聞いてみたいっておっしゃったので持ってきたんです」
「椿さんが?」
「はい」
子供はさらににっこりした。桜井は座りながら、ピアニカに目をやる。
懐かしいな。素直にそう思った。
それは小学生の頃に音楽の授業で使った、息を吹き込みながら鍵盤を押すと音の出る楽器だった。
「さきほどまで椿さんが吹いていたんですよ」
子供の言葉に桜井は瞬いた。先ほど聞こえていた懐かしい音。
「ほ、ほんとうか?」
「はい」
目の前の優次の瞳に偽りはない。桜井は震えそうになる手でピアニカを手に取った。
「も」
「も?」
「もう一度吹いてくれませんか、椿さん」
桜井は椿が居るであろう座布団に目を向けた。そうして頭を下げる。
「お願いします」
「い、いやじゃって仰ってます……」
子供がいつものように通訳する。しかし桜井は諦めなかった。
「そこをなんとか」
「いやじゃ」
「椿さん」
「くどいぞ、馬鹿」
「……」
思わず優次にじっとりとした目を向ける。すると当の子供は慌てたように首を振った。
「ち、ちがいます。椿さんが言われてるんです」
「わかっている」
桜井は大きく息を吐く。
と、それと同時に屋敷の外から大きな声が聞こえてきた。
「桜井さま〜っ! いらっしゃいますかあ〜?」
「あ、美幸さんです」
優次の声に桜井はさらに息を吐いた。
「いい。ほおっておけ」
「あ、でも、椿さんが中に入れろっておっしゃってます……」
「……くっ」
桜井は黙り込んだ。桜井はこの屋敷の主は椿であると思っている。しかも彼女の願いに逆らう気は毛頭なかった。
ほどなくして美幸が優次に連れられて入ってきた。右手には黒い傘を握り、そうして左手には黒いマントを握っている。そうしてその先には顔色の悪い男がひきずられるようにしてくっついてきていた。
「こんにちは桜井さま、椿さん。 お言葉に甘えておじゃましまあす! ほら、根倉も挨拶しなさい! 」
「あ、こ、こんにちは……おじゃまします」
「……ああ」
桜井は二人に目を向ける。この二人は椿のお気に入りであるようだった。
顔色の悪い男の方は彼女の同胞であるらしいから問題はない。まあ男であるという時点で多少の不安は残るが、まあぎりぎり許容できる。
それよりも問題なのは小娘の方だった。この小娘は桜井に向かって求婚を続けているという奇特な存在の娘だった。何度振っても、何度も何度も諦めずにアプローチを続けてくる。
それ自体は問題は無い。問題なのは桜井に想いを寄せているという存在に対して、椿が少しも嫉妬をしてくれないことだった。
一度、それとなく優次に聞いてみたことがある。
ところが返ってきたのは実にがっくりとした返答だった。
「美幸はなかなかに良い娘だと思う。骨盤も広いから良い子を産みそうだ。早くツバをつけておけ」
はあ、と桜井は息を吐いた。なんだか嫌なことを思い出してしまった。
「あ、ピアニカ」
当の美幸はケロリとして桜井の手にしている楽器に目を向けた。そうして何を思ったか、突如として瞳を輝かせる。
「あのう、桜井さま。それを貸してくださいませんか?」
「……? ああ」
「ありがとうございます! 」
美幸はそれを受け取った。
そうして立ち上がり、これでもかというほどの満面の笑みを浮かべる。
「桜井さまがこれを吹いていたんですよね! ようし、あたしが今これを吹いたら間接キッスです! 初キッスです! 責任とって結婚してくださいね桜井さま! 」
「なっ……!!」
その発想はなかった。
桜井はぎょっとして美幸を見たし、優次もそして美幸の連れである男も唖然として少女を見あげている。
「キ、キス……」
優次が顔を真っ赤にしてつぶやいた。その隣では根倉も顔を赤くしてあわあわしている。
「ゆ、ゆ、ユキさん駄目ですよ……嫁入り前の娘さんがキ、キッスだなんて言葉を人前で使っては……せ、せめて接吻と……」
「そういう問題か! 」
桜井は叫んだ。慌てて立ち上がり、美幸の手にあるピアニカに手を伸ばす。
しかし異常に運動神経の良い娘はそんな桜井の手をくるりとかわした。
「ふっふっふ。もう遅いです! これであたしは桜井さんの嫁です! 」
「そんなわけあるか! というかキッスってなんだキッスって! お前はいくつだ!」
「15です! あと1年で公式に嫁になれます! でも桜井さまならいつだってオーケーです!」
「激しくどうでもいい! いいから返せ!」
「嫌です! 」
どすんばたんと暴れまわる26歳と15歳の二人をみながら、やがて我に返った優次がぽつりをつぶやいた。
「あ、でも……さっき吹いていたのは椿さんだから……」
ぴたり、と部屋の空気が止まった。


美幸は瞬き、そうしてピアニカを手にしている手をおろした。
「なあんだあ……それじゃあ意味ないじゃない……」
いわゆる既成事実大作戦は失敗である。そう思いながら桜井に目をやった美幸は、思わずぎょっとしてその身をひいてしまった。
「へ? え? さ、桜井、さま……?」
「寄こせ」
なんだか目が据わっている。というか怖い。凄く怖い。
先ほどまでとは段違いに殺気を感じる瞳になった桜井を見て、美幸はあることに思い当たった。
(そ、そうか、椿さんとの間接キッスを狙ってるんだ……!)
なんとも大人気ない26歳である。しかしその殺気はまぎれもなく本物で、戦闘的に百戦錬磨の美幸でさえ思わず震え上がるほどだった。あわててピアニカを放り投げる。
「根倉! パス!」
「ひ、ひいえええええ」
同居人の男はなんとかそれを受け止めた。しかしそちらに向けられた桜井の瞳を見るなりぷるぷるとウサギのように震えだした。美幸と同じく、その凄まじい殺気を感じたのだろう。完全に怯えきっている。
「ひいいいい」
「根倉! それを吹きなさい! 早く!」
「むむむ、無理ですすすすす」
「それを吹くだと……? 神だかなんだか知らんが、それは万死に値する行為だぞ」
「ほ、ほらあああああああ」
「馬鹿! あんたは貧乏神なんでしょ! 死なないわよ!」
「いや、殺す。俺が」
「ひええええええええ、と、倒置法を使ってまで宣言されてるんですけどおおお」


「あ、あわわ……」
もはや奥座敷は大騒ぎである。
その有様を見ながら優次は部屋の隅っこで怯えていた。なんというか、凄い。
これがレンアイのパワーというものなのだろうか、と未だに恋と言うものをしらない小学生は震えながら感じていた。
その脇では椿が面白そうにその有様を見ている。時折面白そうに手を叩いたり、声をあげて笑ったりしているところを見ると、心底楽しんでいるようだった。
「椿さん、優次くん、こんばんは」
そのとき部屋にリコが入ってきた。
「ごめんなさい。挨拶したんですけれど、お返事がないので勝手に入らせてもらっちゃいました。声はしていたから……」
「かまわんかまわん」
椿はにっこりする。大人だというのに椿の姿が見えるという不思議な女性はそれを聞いてほっとしたように笑い、そうして部屋の中を見て瞳を見開いた。
「な、なんだか大騒ぎですね……」
「ああ」
そのときちょうど青い楽器が畳の上を転がってきた。
大騒ぎのもとである3人はそれには気づかぬまま言い合いをしている。というか、なぜか根倉だけが両側からぐいぐいと押しつぶされていた。おそらくは桜井と美幸の言い争いを止めたいのだろう。しかし存在感の薄い男は文字通り、ただひたすらクッションの役割を果たしているだけであった。
「ときにリコ。お前はぴあにかは吹けるのかの?」
「え?あ、はい。少しだけなら」
椿がふいに無邪気な表情を浮かべてリコに尋ねた。優次は思わず椿の顔を見る。
椿はそんな優次の顔を見て、そうしていたずらを思いついた子供のような顔で微笑んだ。
小さな手がピアニカを拾い上げる。そうしてリコに向かってそれを差し出した。
「では聞かせてくれんかの?」


ぱぷうう〜


まぬけな音が響き渡る。
思わず動きを止めた3人の前で、何も知らない天然少女は照れたような笑みを浮かべて頭をかいた。
「ご、ごめんなさい。やっぱりうまく吹けないみたいで……」
「……」
「……」
「……」
呆然と自分を見ている3人の視線に気づいたリコはようやくきょとんと瞬いた。
「え。わ、わたし何かいけないことをしましたか……?」
「…………い、いえ……」
「え、で、でも、あの……」
父親の恩人であるリコにはさすがの桜井も手が出せない。
「き、気にしないで下さい。リコさん……」
「え? あの? さ、桜井さん……?」
「あ、あははは……はあ」
がっくりと畳に手をつく桜井の背に、リコの心配げな声だけがかけられるのであった。



騒ぎがひと段落したあと、縁側で肩を落としている桜井の元に優次がやってきた。
手にはピアニカを持っている。
「桜井さん」
背後では桜井の買ってきた茶菓子を囲んで談笑している面々の声が響いている。
あまりの落胆からその談笑に加わることの出来なかった桜井は、ピアニカを持ってやってきた優次にじとりとした瞳を向けた。
「……なんだ」
「あ、あの。昨日、椿さんが教えてくれたんです」
「なにを」
「桜井さんは凄くピアノがお上手だって」
「……」
桜井は瞬いた。この家にはピアノは無い。椿にピアノのことを話した記憶もない。
だから椿は自分の演奏する様子など知らないはずだった。
「桜井さんのおじいさんが他の人に自慢げに話すのを聞いていたんだっておっしゃってました。だから一度聞いてみたいんだって」
「……」
「だから今日、僕はピアニカを持ってきたんです。ピアノじゃないけど、全然違うけど、雰囲気だけは味わえるかなあって」
「……」
優次はそっと声を落とした。おそらくは椿に聞こえないように。
「あのう、吹いてあげてもらえませんか。椿さんに」



やがてその部屋にピアニカの音色が響き渡った。
ピアノには程遠い、小学生の持つ安い楽器。
それでもその音色は、橙色に染まる空にまでも届くかのように澄み渡るのであった。

どこまでも、どこまでも。






2010・4・17










或るオレンジの音色









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