「或る若社長の花嫁」

或る変化の階







はじめは単に愛しかった。

子供は自分の守るべき血族の末裔であったから、もしも自分の姿が見えなくても自分のもてる全てを注いで守るつもりでいた。
ところがその子供は自分のことを認識して、そうして自分に一心に懐いてくれた。
それはずっと一人で居た自分にとって嬉しいことだった。
数十年ぶりに人間と話をして、存分に遊んだ。
これまで経験から言って、子供が自分の姿を見ることが出来るのはせいぜいが十歳まで。
だからその間だけでも子供と共に居ようと思った。
愛情に飢えた子供はそれを与えてくれる存在を望んでいたので、自分がそうなろうとも思っていた。
愛しくて、可愛かった。
だから期間限定の友人として、出来る限りのことをしようと思っていた。


やがて子供は成長して、自分の姿が見えなくなった。
自分はそれを当たり前のこととして受け取っていた。
大人になるとはそういうことだ。
自分は幻。大人になれば気のせいだったと割り切ることの出来る小さな幻。

そのはずだった。



「椿さん。今日はいい天気ですね」


子供は少年と呼べる年齢になってもこの家にやってきた。
黒い学生服を着た少年の背は毎日のように伸びていく。
成長して低くなった声で名前を呼ばれるのはおかしな気分だった。

少年には自分の声も、姿も、気配すらも感じることが出来ない。
それなのに少年はやってきた。
昔のように饒舌ではなくなったが、それでも思い出したように自分に向かって話しかける。
返事を返って来ないのを承知したうえでの行為なのか、それとも返ってくるかも知れないと期待しているのかは自分にはわからなかった。

「椿さん。寒くありませんか?」

この少年がやってくるのは切なかった。
それはこの少年が自分という幻に囚われており、人間の世界に目を向けていないことを示しているからだ。
だから切なくて哀れでならなかった。
そのくせ少年が来ると心のどこかで嬉しいと思う感情も確実に存在しており、そんな自分のことを嫌悪してもいた。

だから、聞こえないとは思っていても返事はしなかった。
ただ座っている少年の背中にそっともたれてその声を聞いていた。


さびしいとか、かなしいとか。
自分のことをわすれないでほしいとか。
自分にそんなことを思う権利は、どこにもありはしないのだ。


年月は過ぎ、少年は高校生になった。
この頃になると少年はほとんど喋らなくなった。自分の名前を呼ぶこともなくなった。
ただ時折、ほんの時折呼びかけては途中で止める。
それを繰り返しては自嘲している風だった。
少年は現実を見ることを始めたのだ。
それは少年のためには良いことに違いがなかったので、自分は喜ぶ事にした。
心のどこかがかすかに痛むような気もしたが、そんなことには気づかない振りをした。


やがて少年は来なくなった。


一つの秋がめぐった。
自分にはひとりきりで過ごす、いつもどおりの生活が訪れていた。
そうして、時折もれ聞こえてくる少年の成長のようすを聞くことを楽しみにしていた。
少年はなかなかに優秀であるらしかった。
高校生活も順調に過ごしており生徒会長にまでなったらしい。
そのようすを聞くだけで自分は誇らしかった。


一度だけ、少年がこの家にやってきた。
この家に住む祖父に新年の挨拶をするためだったと思う。
久しぶりに見る少年はすでに青年とも呼べる容姿になっており、まるで別人のようにも思えた。
自分は家の中は自由に動けるので、その様子を見ては不思議な気持ちを味わっていた。
少年は挨拶がすむとすぐに帰ろうとしかけたが、玄関先でくるりと向きを変えた。
そうして奥座敷へ足を踏み入れる。
今更何の用なのだろう。
そう思いながら後を追うと、青年は座敷の中で突っ立っていた。
そうして、いきなり小さく笑い出した。

「……俺は一年、ここへは来ませんでした」

少年は自分自身を嘲るような、それでいてなにかに縋るように微笑んだ。
そうして言葉を続けた。

「少しは寂しいと思ってくれましたか、椿さん」

「……少しでも寂しいと思われたのなら、姿を見せてください」

「声を聞かせてください。存在を示してください」

「今ここで」


「お願いです」

「…………」

「…………」

「…………」

「…………お願いです」



自分は呆然と少年を見上げた。
少年は優しげに微笑んでいる。
そのくせ大声で泣いているようにも思えた。
少年は自分のことを忘れたわけではなかったのだ。


寂しい、と。
大声で答えてやろうかとも思った。
そうすればどうするのか。目の前の少年は自分のためだけに生きてくれるのか。
それをみて自分は本当に嬉しいのか。望んでいるのか。
望みのままに生きていいのか。
愛しい子供。守るべき血筋。
それを自分が奪っていいものなのか。
罪を贖えてもいない、この自分が。

せめぎあういくつもの感情がぐるぐると身体の中でのたうちまわるかのようで、ひたすらに苦しかった。
しんとした時間が満ちる。
そうして、やがて自分は答えを出した。




二時間ほど経っただろうか。
何の変化もない部屋の中で、やがて少年は顔を伏せた。
「…………わかりました」
その表情から笑みは消えていた。
顔面は蒼白で、傍らで握り締めた拳はかすかに震えている。
「もう、此処へは来ません。貴女には俺が、必要ないのなら」
そうして彼はつぶやいた。
「さようなら。……椿さん」




「……ああ」

自分はそこで、はじめて言葉を返した。
聞こえない声。見えない表情。
今ほどそれを感謝したことはない。

「さようなら、正美」


おそらく自分はうまく笑うことも出来ず、ひどくみっともない顔をしていただろうから。







2010・1・30










或る変化のきざはし









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