「或る若社長の花嫁」

或る柿の木の下で



「正美、柿が食べごろになったぞ」
椿の言葉に、9歳の桜井正美は瞬いた。
「柿、ですか?」
「そうじゃ」
目の前の幼女は喜色満面の笑みを浮かべている。
そうして縁側に立つと、その庭の隅にある木を指し示した。
「ほれあそこにある。正美、肩車をしてやるからあれを取って食べようぞ」
そこには確かに艶やかな色をした果物がわんさと連なっていた。
そのひとつひとつがふっくりと丸みを帯び、夕陽を集めたような綺麗な色をしている。
確かにおいしそうな柿だった。

「椿さん。あれが食べたいのなら、誰かに取らせましょうか」
正美は屈みこんで椿と目線を合わせる。
そうして尋ねると、いきなり頭をぽかりとやられてしまった。
「ばかもん」
「え?」
目を白黒させながら椿の顔を見ると、椿はその小さな手をびしりと正美の前につきつけた。
「柿というのはな、自分でとって食べるからおいいしいのじゃ」
「…でも、あんなに高いところにあるから、僕たちには取れませんよ」
「ばかもん。だから言ったじゃろう。肩車を『してやる』と」
「は?」
ぽかんとする正美をよそに椿は縁側から地面へと飛び降りた。
そうして正美に背を向けて、ひょいと屈みこむ。


「ほら、私の肩に乗るんじゃ。肩車をしてやるから」







或る柿の木の下で






肩車。
誰にもしてもらったことはなかったが、もちろん正美はテレビや本などを見て意味は知っていた。
大人が子供を肩に乗せること。
テレビで見たときは、肩に乗せてもらった子供はきゃあきゃあとはしゃいでいた。
……何が楽しいのかさっぱりわからなかったが。

「よいから乗らんか」
椿の声がじりじりとした色を帯びてきた。
正美は困った。
自分は肩車をしてもらいたいわけではない。
それに自分は目の前の幼女より大きいのだから、上に乗ったりしたら椿はつぶされてしまうのではないだろうか。
「あの、それなら僕が下に……」
「ぐだぐだいうな。早う乗れい!」
妥協案もあっさり却下され、正美は困り果てた。
椿は横目で正美を睨みつけている。
その様子もたいそう可愛らしかったが、今はそれどころではなかった。
正美は息を吐き、えいやとばかりにその細い肩に足を乗せた。
このままでは椿の機嫌が悪くなる一方であることを悟ったからである。
すると途端に下になった幼女が声をあげた。
「う」
「だ、大丈夫ですか椿さん。お、降りましょうか」
椿の低い声に正美は慌てたが、当の幼女は屈みこんだ姿勢のままふるふるとかぶりを振った。
「大丈夫じゃ。ようし、行くぞ。しっかりつかまっておれ」
掴まるってどこを。
正美はまさかこんな小さな頭に掴まることはできそうになかったので、とりあえず椿の頭に手をそうっと乗せた。
さらさらとした感触がてのひらに心地よい。
「うううー……」
下からは椿の呻き声が聞こえてくる。
どうやら必死で正美を持ち上げようとしているのだが、あまりの重さに立ち上がることすらできないようだった。
「やっぱり無理ですよ。椿さん」
「や、やかましい」
ふんぬと椿が力を入れる。少しだけ正美の身体が持ち上がった。
「あ!」
ずべしゃ
しかし次の瞬間。
椿が顔面から変な音を立てて倒れこんだ。
もちろん正美が肩に乗ったままである。
「むぎゅう」
「つっ椿さんっっっ!」
正美は慌てて立ち上がった。自分より年上とはいえ姿は幼い女性なのだ。
そんな幼子を踏み潰したとなっては男の名折れである。
「だ、大丈夫ですか…っ?」
「へ、平気じゃ…」
地面の上に大の字につぶれていた椿を引き起こす。
白い頬や着物が土に塗れていたので、屈んでそれを払ってやった。
椿は黙ってそれを見ていたが、やがてはあと溜息を落とした。
「すまんな…どうやら私には無理な用じゃ」
「いえ…ごめんなさい。僕の方が大きくなっちゃったから…」
正美は慌てて首を振る。
自分たちの体格差ではどう考えても無理なことはわかっていた。
そもそも自分は頼んではいない。それなのにどうして椿が肩車にこだわるのか。
その方が不思議でならなかった。

すると椿は、さも残念そうに続けた。
「お前に肩車を体験させてやりたかったんじゃが…」
その言葉に正美は瞬いた。
「どうして、そこまで……」
問い返すと、椿は縁側に飾ってある赤い風車に目をうつした。
その風車は夏に正美が買ってきたものだった。
風車が好きだ。
そう言った椿を喜ばせたくて、夏の神社をひとりで歩いた。
ところがなかなか売っていないし、夜店ではカードは使えなかった。
運よく手に入れることはできたが、たいへん難儀したことをよく覚えている。
苦労して手に入れた其れは、今や秋の風に吹かれて涼しげに回っていた。
椿は再び正美に瞳を向ける。
そうして幸福そうに微笑み、屈みこんだままの正美の髪をやさしく撫でた。
「……良いものなんじゃぞ肩車は。私も昔、よく兄にしてもらっておった。
おぬしも一度は体験させてやりたかったんじゃが…」
「……」
「すまんの、正美」
「……」
正美は再びしょんぼりとしてしまった椿の顔を見たまま黙り込んだ。
胸がじわじわと熱くなる。
それは目の前の女性が、他でもない自分の為にこんな無謀なことをしてくれたということが理解できたからだった。

「……椿さん」
「なんじゃ」
「ありがとう、ございます」
「?」
「ありがとうございます」
「……私は何もしておらぬぞ?」
「ありがとうございます……」
椿が不思議そうにきょとんと瞬く。


胸の奥が熱い。
しかし9歳の正美には、その温かなものの正体を掴みとることはできなかった。
だからただ、口を開いた。

「ありがとうございます。……椿さん」


正美は拙い言葉をひたすらに繰り返し続けた。
何度も。何度も。


少しでもいい。

その胸に湧き出てくるその感情への感謝を、彼女に伝えたかったのだ。









2009・11・28










或る柿の木の下で








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