或るしあわせな家族 |
禍津日神(まがつひのかみ、まがついのかみ)は神道の神である。 禍(マガ)は災厄、ツは「の」、ヒは神霊の意味であるので、マガツヒは災厄の神という意味になる。
或るしあわせな家族
わたしの家は貧乏です。 わたしがこの世に生まれてから11年。 少なくともわたしは、一度として裕福だと感じたことがありません。 「まあまあ。貧乏でもいいじゃないですか」 わたしの唯一の家族であるお父さんはのんき者です。 貧乏や、降りかかる不幸を何とかしようとわたしが頑張っている時にも、いつものようなほんわりとした笑顔でそう言うだけで何もしようとはしません。 「うちに神様が居るというだけでもありがたいことなんですから」 わたしはお父さんのその言葉を聞くたびに呆れてしまいます。 いえ、お父さんの言うことが嘘というわけではありません。 神様はいます。間違いなく。 ただ、その存在がわたしにとっては迷惑でしかないだけで。 …そう。わたしの家には『神様』が居るのです。 今日の朝食も近所のパン屋さんでもらったパンの耳と、豆腐屋さんでもらったおからを塩コショウでさっと炒めたものです。 材料費はかかっていません。このおかずが3食続くことだってあります。 まあ、美味しいからいいのですけれど。 わたしの作った朝食を見ながら、お父さんは嬉しそうに三つの湯のみ茶碗にお茶を淹れてくれました。 そうしてそのひとつをわたしの右隣に座っている若い男に差し出します。 「はいどうぞ。熱いので気をつけて下さいね」 「す、すみません…」 「いえいえ」 恐縮したように首を縮める「居候」に向かって、お父さんはやっぱりほややかな微笑みを浮かべています。 それを見て、わたしは慌てて口を開きました。 「お父さん。そんな奴にお茶を出す理由なんてないよ」 思わず声が刺々しくなります。 するとわたしの言葉に「居候」がびくりと細い身体を震わせました。 痩せぎすの身体にオンボロの黒い服。 黒い前髪は顔半分を覆い隠すほどに長くて、その表情は見えません。 けれどもその前髪の隙間からわたしをそうっと伺っている気配を感じます。凄く、鬱陶しいです。 わたしは苛々と続けました。 「ねえ。この家からいい加減出て行ってよ。お願いだから」 「こら美幸さん。神様にそんなこと言っちゃあ駄目でしょう」 「だってお父さん!神様っていってもこいつは…」 「す、すみません…」 神様と呼ばれた「居候」は、その言葉に否定はしません。 ただその身をいっそう縮めました。 「気にしないで下さいね」 お父さんが微笑みながら男に声をかけました。 「この家に貴方が居てくださったほうが、僕は幸せなのですから」 優しい声と笑顔です。わたしは知っています。お人よしのお父さんがその言葉を心の底から言っているということを。 お父さんはわたしが知る人間の中でも飛びぬけてのお人よしです。 善良といえば聞こえはいいのですが、わたしには時折、ただの馬鹿なのではないかとと思える時が多くあります。 お友達の借金の保証人になったとたんその人が失踪したこともあるし、オレオレ詐欺にも簡単にひっかかります。 「美人局」ならぬ「婆局」にひっかかったこともあります。 ちなみに婆局とは、「身寄りがなくて老人ホームに入らなきゃならないけれど先立つものがない」と偶然知り合いになったお年寄りに相談され、お金を貸した次の日にとんずらされたという驚くべき詐欺です。 お年寄りまでそんなことをするなんて。 人間というものは恐ろしいとつくづく思ってしまいます。 もっとも、当のお父さんは何とも思っていないようなのですけれど。 というわけで、お父さんのお人よしは老若男女問わず如何なく発揮されます。 つまりのところ、今だってそうなのです。 こんな役立たず…いや役に立たないだけじゃなく不幸しか呼び込まない『神様』にさえ。 「貧乏神」 わたしは居候の本当の名前を呼びました。 そう。これがこの男の正体です。 神様でありながら不幸を呼ぶ、最低最悪の存在なのです。 わたしは息を吸い込みました。わたしはこうして、毎日戦っています。 お人よしで大馬鹿な…だけど大好きなお父さんを守るために。 「わたしはあんたと暮らし続けるなんて絶対嫌。だから、早く出て行きなさいよ!」 この貧乏神は、わたしが物心つく前からこの家に居ました。 正確にいうなら、父さんの側に居たといってもいいのかもしれません。 お父さんはお仕事で忙しかったので、小さな頃のわたしの面倒をみてくれていたのは、ほとんどこの貧乏神でした。 小さい頃のわたしはこいつを『お兄ちゃん』と思って慕っていました。 貧乏神は基本的に家からほとんど出ないし、やることも特にないようでした。 家事を手伝ってくれたりもしますが、基本的に毎日ぼうっと過ごしています。 だけどわたしがねだれば一緒に遊んでくれたし、一緒に歌も歌ってくれました。 お母さんと呼べる人はあたしの小さい頃に家を出て行ったそうです。 だから小さなわたしの認識していた家族は、お父さんとこの男の2人だったのです。 そんなわたしが『お兄ちゃん』を『貧乏神』だと知ったのは、他でもない本人がそう告白したからでした。 あれは2年前。お父さんが交通事故に遭ったときのことでした。 慌てて病院に行くあたしについて来た『お兄ちゃん』は、意識を失ってぐったり横たわっている父さんを見てぽろぽろと涙を落としました。 そうして言ったのです。 「ごめんなさい。僕のせいです…」 「どうして?お兄ちゃんが悪いわけじゃないよ」 わたしはびっくりしました。 けれど『お兄ちゃん』は何度も首を振り、そうして両手で顔を覆いました。そうして呻くように言葉を零したのです。 「僕が憑く人には不幸が訪れるんです。その人の寿命が尽きるまで、永遠に」 だって僕は。 その人は続けました。 「貧乏神なのですから」 わたしはびっくりしました。 とにかくとにかく驚いて、無事に意識を取り戻した父さんに尋ねてみました。 幸運にも腕を骨折しただけですんだお父さんは、いつものような優しい笑顔であっさりと頷きました。 「うん。知ってますよ」 「は、はあ…?」 わたしはさらにびっくりしました。 だって、それは物凄くとんでもない事なのではないでしょうか。 「貧乏神」という神様のことはわたしだって知っています。 昔話の絵本にだって出てきます。 人にとり憑く神様。そうしてその人の家に不幸を呼び込む神様。 神様とは名ばかりの、忌むべき存在。 そんな恐ろしい存在を笑って受け止めているのは凄くおかしいことのように思えました。 けれどもお父さんは平然としていました。 「だけど死ぬわけじゃないですからね。それにユキも、彼がここに居てくれた方が寂しくないでしょう?」 わたしはその言葉に完全に言葉を失いました。 わたしのお父さんは恐ろしいほど純粋な生き物なのだと理解したからです。おそらく子供のわたしよりも。ずっと、ずっと。 だから「貧乏神」を、人に忌み嫌われている存在さえもすんなりと受け入れているのでしょう。 自分の幸運さえも、引き換えにして。 考えてみればお父さんが事故に遭うのは何回目でしょうか。 わたしはお父さんの笑顔を見ながら考えました。すぐに答えは出ました。 わたしが思い出せるだけでも24回。 これは多分、凄く多いはずです。 今まで考えたこともなかったけれど、こんなに事故に遭うなんておかしいことです。 おそらく全部、貧乏神のせいなのでしょう。 「…嫌だよ…」 やがてわたしはかぶりを振りました。 わたしはお父さんが大好きです。 どんなに人に騙されても、どんなに不幸な目に遭ってもにこにこして全て受け止めているお父さんが大好きでした。 だけど不幸になって欲しいわけではありません。 もっと楽に生きることが出来るなら、そのようになって欲しいのです。 だから、そのためならわたしは…。 「出て行ってよ!」 わたしの戦いはあれからずっと続いています。毎日。毎日。 だけど貧乏神は出て行きません。 お父さんもけっして、貧乏神を追い出そうとはしませんでした。 「……」 その日。学校から帰宅すると、貧乏神がぼうっとした感じで膝を抱えて座っていました。 貧乏神は不幸を振りまくような仕事はしません。 ただ、そこに居るだけです。 何もしないのにそれだけで不幸を振りまけるのだから、もしかしたら凄い力なのかもしれません。 それは勿論、傍迷惑なことではあるのですけれど。 「あ、お、おかえりなさい…」 貧乏神は帰って来たわたしを認めると、慌てその顔をあげました。 笑顔のようなものも浮かべかけていたけど、しかしすぐにそれを消してしょんぼりと俯きます。 今朝のわたしの言葉を思い出したのかもしれません わたしはむっとしました。 貧乏神の態度にではありません。その態度を見てわたしの心に浮かんだ或る感情にでした。 まったく、どうしてわたしが罪悪感など抱かなければならないのでしょう。この人は貧乏神で、わたしの家に不幸をもたらす元凶です。 それなのに。 おかしい。すごくおかしいことです。 わたしは口を開くたびに、貧乏神に向かって「出て行け」と言います。 最近は、特に強く彼に言葉を投げつけています。 大嫌い。 消えろ。 あなたなんか居なくなったほうがいい。 彼は悲しそうな、今にも泣き出しそうな顔をします。 それなのにそれでも何処へも出て行きません。 その神経がわたしにはさっぱり理解できませんでした。 こんなに嫌われているのに、どうしてそれでもここに居るのでしょう。 わたしは思いつく限りの罵詈雑言を言の葉にのせます。 それはとてもてとても、ひどい言葉です。 わたしが学校で言われるからかいの言葉よりももっと直接的で、心臓をえぐるような言葉です。 だけどそれでも貧乏神は出て行きません。 もしかしたらわたしたちが不幸になるのを楽しんでいるんだろうか。 そう思ったりもします。 けれどもあのときの涙を思い出すとそうではないような気がしました。 だからこそ彼が理解できませんでした。 貧乏神はわたしが家に帰るとおどおどとしながら、それでも「おかえりなさい」と嬉しそうに言ってくれます。 小さな頃と、同じように。 「え…お父さんが…重体…?」 その日の夜。 わたしは警察から1本の電話を受けました。 仕事中にお父さんが、銀行で強盗殺人を起した犯人を捕まえようとして刺されたというのです。なんという運のなさ。そして無駄な正義感。 病院に走ったわたしが見たものは、いろんな管や機械ににつながれたお父さんの姿でした。 「今夜が峠でしょう」 お医者さまがそういうのをわたしはぼんやりと聞いていました。 わたしに付いて来た貧乏神も、やはりまっしろな顔で呆然としていました。 …これもすべてこいつのせいだ。 わたしがそう思うのにそう時間はかかりませんでした。 誰も居ない真夜中の病院の廊下で、わたしは貧乏神を思い切り突き飛ばしました。 そうして廊下に倒れた男の上に乗って、無茶苦茶にその身体を叩きました。 「あんたのせいよ!」 わたしは叫びました。 「あんたが居るから、あなたのせいなんだから!なんで、なんで出て行ってくれないのよ! 素直に出て行ってくれていたら、こんなことにはならなかったのに!な、なんで…なんで…」 両目から涙がぽろぽろと零れ出るのがわかりました。 それが白い顔をした貧乏神のうえにも落ちていきます。 振り上げる腕に力は入りません。 それでも叩くことをやめられませんでした。 とすんとすんと男の胸にこぶしを打ちつけながらも、わたしはただ叫び続けました。 「お願い…お願いだから…」 わたしは泣き崩れました。 皮肉なことに元凶である男がわたしの身体を受け止めます。 わたしはその身体にしがみつきながらわんわんと泣きました。 だって、これではお父さんが可哀想です。 それにわたしだって…。お父さんと会えなくなるわたしだって可哀想です。 実のところ、わたしは知っていました。 数日前からお父さんが、わたしを「お母さん」と呼ばれる人のところに行かせようとしていることを。 自分の不幸がわたしに飛び火することを恐れていることを。 だけどわたしは。 自分の不幸なんかより、わたしは。 「わたしからお父さんをとらないでよう…」 恐怖にぼろぼろと涙が零れました。 会えなくなる恐ろしさに、心臓がぎゅうぎゅう締め付けられます。 お人よしのお父さんは貧乏神を邪険には出来ません。 そうしておそらくはわたしを不幸にもしたくはなかったのでしょう。 わたしをこの家から出して、災いの振りかからない別のうちの子にしてしまえば良いと考えたのでしょう。 だけどもわたしはそんなことは嫌でした。 だから、最近は特に強く彼を追い出そうとしていたのです。 正直言うと、この貧乏神のことは嫌いではありませんでした。 むしろ逆といっても良いくらいです。 だからわたしは貧乏だっていいのです。不運だってかまいません。 ずっと3人で一緒に暮らせるならそれが一番幸せだと、そう思っていました。 本当に、心の底から。 …だけど。 「ユキさんはお父さんのことが本当に大切ですよね…?」 わたしを抱きとめたままの貧乏神が、ふいに口を開きました。 「ひっく…あ、当たり前よ…」 「なら、僕はお父さんの側を離れるわけにはいきません」 「な…」 わたしは目を瞠りました。 彼がこんな時にそんなことを言うなんて信じられませんでした。 やはり貧乏神という存在は人の不幸を喜んでいるのでしょうか。 涙がさらに零れます。 しかし貧乏神は静かにこう、続けました。 「離れません。僕が離れると、君のお父さんは死んでしまうのですから」 「…な、なにを言って…」 わたしは呆然としました。呆然と貧乏神の顔を見つめます。 前髪から覗く瞳は深淵を覗きこむように静かでした。 「お父さんは生まれつき心臓が悪いんですよ」 嘘を言っているようには見えません。 だからわたしは、かすかすの声を喉から絞り出しました。 「どういう、こと…」 「ユキさん。僕は貧乏神です。どうしてこう生まれたのかも分からない。実のところ自分の存在意義だってわかりません。 だけども貧乏神です。そう生まれたから、生まれてしまったから、憑いた人に不幸を呼び寄せ続ける。それこそ、永遠に」 「……」 「お父さん…誠一とは19歳の時に偶然出会いました。そうして奇妙なことですけれど、僕たちは友達になりました。 …彼はそのころからお人よしで大馬鹿者だったのです。僕は自分が忌み嫌われる存在だと知っています。 いろんな人の不幸を見てきました。だからもう嫌だった。2度と、人に憑くのは嫌だと思ってました」 嫌われるのはね、僕たちでも辛いんですよ。 貧乏神は苦い笑みを浮かべて、そうして続けました。 「だけどね、誠一は言いました。なら自分に憑いてもいいと。いえ、憑いて欲しいと。 永遠に不幸を呼び寄せるということは、僕は君が出て行くまで生きていけるということじゃないかって。 これから出来る家族を残して、先に死ぬなんてことはないんじゃないかって。それに…」 「……」 「せっかく友達になれたんじゃないかって」 わたしは息を飲みました。 「そんなこと……」 「僕は驚きました。そんなことはやめたほうがいい。そう言いました。 それにそんなことがあったとしても生きている限り不幸は訪れ続けます。 それはどんなに長生きしたとしても、生き地獄というやつでしょう」 「……」 「だけど彼は聞きませんでした。これでも随分止めたんです。だけども結局折れたのは僕でした。…そうして、僕は彼に憑いた。 誠一は生まれた時からお医者さんに宣告されていたそうです。せいぜい20歳までの命だろうと。 彼の心臓は今でも持ちこたえています。…でも、その代わり彼には不幸が舞い込み始めた」 「……」 「それがどんなに辛いことか。しかし僕にはどうにもできません。出て行けば、おそらく彼は死ぬ。 ユキさん。君が彼の娘になってからは余計にそうすることができませんでした。もう、彼の命は彼だけのものではない…」 だからね。 貧乏神は静かに、けれどもきっぱりと言いました。 「僕は、彼から憑くことを絶対にやめません。 …彼と君を、これまで生きてきた中でなによりも愛しているからです」 「…お父さん」 「ああ、美幸さん」 父さんは奇跡的に…いや、おそらく『神様』の力で一命をとりとめました。不幸にあっても死ぬことはない人間。 それがわたしのお父さんなのです。 それが不幸なのか幸福なのか、わたしには分かりません。 けれど、それでも。 「早く帰ってきてね。あたしも…貧乏神も、待ってるんだから」 わたしの言葉にお父さんは瞬き、そうして嬉しそうに微笑みました。 「はい」 「だからお父さん。わたし、お母さんのところには行かないからね」 しかしわたしの次の言葉に、途端に困り果てた顔になりました。 「な、なんで知って…?し、しかしね、美幸さんのためには…」 お父さんは何やら言い続けていましたが、わたしはにっこりと笑ってお父さんの手を握り締めました。 「大丈夫」 わたしだって考えたのです。3人が、みんなで一緒に幸せになる方法を。 「わたし絶対美人になるから。そして強運の男でも福の神でも、運の強いやつをわたしの魅力で落として家に連れてきてあげる」 そうすれば幸運と不幸、プラスマイナスゼロ。 お父さんがこんな目にあわなくて済むはずです。 だから、だからそれまでは。 「3人でずっと…一緒に居ようね」 不幸でいることにいつまでも甘んじているつもりはないけれど、それでも今は。 3人で、一緒に。 2009・9・26
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