「或る若社長の花嫁」

或る夏休みの昼下がり







暑くて暑くて、そうして動けなくなったところまでは覚えている。
頭がぼうっとしてきて呼吸ができなくなった。
蹲り、熱せられたアスファルトの上に膝をつく。
ばくばくとした音が耳の奥で響いてきて、それが次第に頭を中から押し出すように膨れてきた。


途切れゆく意識の中で思ったのは叱責への、軽い恐怖だった。








或る夏休みの昼下がり












涼しい。
優次は瞳を閉じたままそう思った。
やわらかな風が頬に流れてくる。
そうして胸を規則正しく叩いている優しい手。
ひどく落ち着くそのリズムのことを優次は覚えていた。
うんと小さい頃、母親はそうして優次を寝かしつけてくれていた。
うとうとと意識がまどろむ。
あまりにも気持ちよくて、そうしてなにより懐かしくて、自然と目頭が熱くなった。

「優次?」

母親の声ではない。
その声に、意識が急速に起き上がった。


目を開いた優次が見たものは着物を着た幼い子供の姿だった。
艶やかな黒髪に黒目がちの大きな瞳。
それは彼が手を貸している青年の、想い人の姿だった。
「あれ…椿さん…」
優次はぱちぱちと瞬いた。その拍子にぬるいものがまなじりを滑り降りていく。
手のひらでそれを拭うと、軽く手を引かれる感触があった。
「まだ動くでない。点滴中じゃぞ」
「え…?」
優次はぎょっとする。
腕に目を落とすと、たしかに細いチューブが腕から伸びているのが見えた。
点滴といえば病院だ。
ここは病院なのだろうかと寝ぼけ眼で辺りを見渡したが、しかしそれは見知った和室の風景だった。
「あれ…僕…?」
混乱して言葉を紡ぐ。
すると傍らに座っている幼女が、手にしていた団扇で優次の頭をこつんとやった。
「あいた」
「また無理をしおったんじゃろう。この馬鹿者め」
「え?」
「正美が道路で倒れているおぬしを見つけたらしい。それで此処に連れてきて医者を呼んだ」
優次は息を飲んだ。
正美という固有名詞が桜井のことを示していることを認識して血の気がひく。
「まあ軽い日射病だったようじゃがな。一応点滴だけして医者は帰っていきおった。具合はどうか?」
「は、はい、もう大丈夫です…」
優次は頷いたが、内心ではひどく動揺していた。
点滴にお医者さん。これは桜井さんに大変な迷惑をかけてしまった。どうしよう。
すると椿がくすりと笑った。
「凄い剣幕じゃったぞ」
「え…」
ただでさえ動揺しているところに追い討ちをかけられて、優次は身を竦ませた。
「ああ、頭に血が上っておった。おぬしはあとでみっちり叱られるじゃろうな。覚悟しておくがよい」
「はい…」
優次は頷く。
桜井は優次の父親が勤めている会社の社長だった。とにかくいつも忙しいらしい。
しかしそれでも出来うる限り毎日、この家に居る椿に求婚をしにやってくる。
寝る間も惜しみ、ぎりぎりの時間を割いて。彼女の元へ。
その大切な時間を自分などの為に浪費させてしまった。これは大変なことだった。
(どうしよう…)
途方に暮れていると、ふいに頬に風があたるのを感じた。
見ると椿が手にしている団扇で自分を扇いでくれている。
優次は瞬き、そうしてすぐに先ほど寝ているときに感じていた風の正体に思い当たった。
そうして身体を優しく叩いていた手のことも。
「……」
何も言葉にできずに椿をみつめていると、しばらくして椿が口を開いた。
ひどく静かな声だった。
「またあやつらと話をしておったのか」
あやつら。
その言葉の意味を察して優次は頷いた。
「はい…」
「あまり無茶をするでない。あやつらの中には自分の妄執に囚われ、攻撃的なやつらもおる。話が通じるやつばかりではないのじゃぞ」
「…はい」
優次は再度頷いた。
それはなんとなくではあるがわかっていた。
街に当たり前に「いる」、けれども姿の見えない人たち。
優次にだけ見えるその人たちは、普通の人間のようにさまざまな性格をもっているようだった。攻撃的な人ももちろん居るだろう。
だけどもその大半は悲しみの感情を抱えているように優次には見えていた。

「…椿さん、でも…」
「ああ」
「僕、考えたんです。自分がもし逆の立場になったらどうだろうなあって…」
団扇が静かに止まった。深い色を湛えた瞳が優次のそれをじっとみつめている。
「死んじゃって、言いたいことがあるのに、わかってもらいたいことがあるのに、誰も自分のことがみえない。
たくさん人が居るのに、それなのにたったひとり。そんなのきっと、寂しくて哀しいだろうなあって」
「……」
「寂しいのって辛いでしょう?胸がすかすかになって、ぎゅっとなって、でもどうしようもなくて。
だから、八つ当たりしちゃうんだって、思うんです」
「……」
「もしかしたら、その寂しいっていう感情がなくなったら、みんな天国にいけるのかもしれない。
だったら、お話相手になるのはいいかなあって、僕、思うんです…」
椿は答えなかった。
無表情にもみえる顔で優次を見下ろしている。
その瞳には身体年齢相応の幼さは微塵もなく、果てしなく深い湖を覗き込んでいるような静けさがあった。
風が吹きぬける。
日が傾きかけているのだろう。秋に近づいていることを思わせるかのような風は涼やかで、心地よかった。
随分昔、子供の頃の桜井がつくったという風車がそれにつれて音を立てる。
すると椿は、小さく笑みをもらした。
「…おぬしは、ほんに優しい子じゃの」
その笑顔は優しい。
そうしてどこか嬉しそうでもあり、他の感情も幾分含んでいるようにも思えた。
しかし次の瞬間。
「あいた」
再び振り下ろされた団扇で頭を叩かれ、思わず優次は呻いた。
次いで椿の声が降ってくる。
「しかし無謀なことをするのは感心せん。お前は、お前を大切に思う人間のことを考えたことはあるのか」
「……え?」
「お前が無理をして、そのあげく怪我をすれば悲しむものが必ずいる。それを考えて行動せい」
「………」
優次は黙り込んだ。
自分を大切に思う人間。
だけど…。
(そんなひと、いないと思います。椿さん…)



そのとき荒々しい足音が部屋に踏み込んできた。
慌てて目を向ける。
すると高級そうなスーツを着た男の姿がその視界に飛び込んできた。
「あ、桜井さん…」
声をかけると桜井は一度だけ瞬き、そうしてその眉を思い切りしかめた。
その、ひどく機嫌の悪そうなその表情に肝が冷える。
そうして思い出した。
そうだ。自分はこの人にすごく迷惑をかけてしまったんだった。
「あ、あの、ごめんなさい桜井さん……」
おずおずと声をかける。
「何がだ」
答える声もすこぶる機嫌が悪い。
「ご、ご迷惑をかけてしまったから…」
「……」
その答えが気に入らなかったのだろう。
桜井はさらに顔をしかめただけでそれには答えなかった。
足音も荒く座敷の中に入ると、そうして優次の側に無言で座り込む。
「おお、怒っておる怒っておる」
その向かいでは椿がおかしそうにころころと笑っている。
いや、笑っている場合じゃないです椿さん。
内心では椿に助けを求めながらも、優次は桜井に視線を戻した。
「あ、あのう…」
桜井はむっつりとしたまま腕を組んで黙りこくっている。
「あ、ありがとうございます…すみません…」
「………」
桜井はやはり機嫌の悪そうにしていたが、やがてぼそりとつぶやいた。
「具合はどうなんだ」
「も、もう平気でなんです…ごめんなさい…」
「………」
優次の言葉に桜井は再度黙り込んだ。
その秀麗な顔はさらにしかめられている。
当たり前だ、と優次は慌てた。
「あ、あの、僕、すぐに帰りますから…ご、ご迷惑ばかりかけてしまって本当にごめ…」
起き上がって頭を下げようとする。
しかしその動作を遮るかのように、低い声が響いてきた。
「黙れ」
桜井の声。その声は存分に怒りを含んでいる。
優次は身体を竦ませた。怒られる。その恐怖に心臓が縮こまる。
しかし、次の瞬間に出されたのは意外な言葉だった。

「この阿呆め。せっかくこの俺が心配してやったというのにごめんだのすまんだのばかり……」
「………」
「………」
「……くそ、もういい」
優次は思わずぽかんとする。
桜井は口を盛大にへの字にすると立ち上がり、足音荒く部屋の出入り口に向かう。
そうして去り際に目線だけで振り返り、優次にこう命じた。
「お前の両親には許可を取っているから今日はここに泊まって身体を休めろ。いいな」
言うなり、荒々しく去っていく足音。
呆然とそれを見送っていると、傍らでくく、くく、と声が聞こえた。
見ると着物姿の幼女が俯いたまま声を洩らしている。
そうしてすぐに、盛大に腹を抱えて笑い出した。
「くっくっくっ…あははははは!あ、あやつは本当に面白いな…!」
「……」
「くくく、優次、ああいうのをつんでれと言うのじゃぞ。覚えておけ。くっくっくっ…」
「……」



ひとしきり笑った後、そのあまり浮かんだ涙を拭いながら、椿は優次へと向き直った。

「さて優次。お前はさきほど、自分のことなど誰も心配していないと思ったのかもしれん」が…」

依然として言葉を失ったままの優次の耳に、椿の軽やかな声が流れ込んできた。

優しげに。
そうして誇らしげに声は告げる。


「ほれ見ろ。ちゃんとおるではないか」







2009・9・12









或る夏休みの昼下がり








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